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ヴェルサイユの花 ~Fleur de Versailles~                         

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2010年 06月 09日

ショパン -生誕200年ー



ポーランドに生まれ、フランス・パリで永遠の眠りについた作曲家フレデリック・フランソワ・ショパン


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Frédéric François Chopin  1810月3月1日(2月22日説あり) - 1849年10月17日

フレデリック・フランソワ・ショパンの肖像  ドラクロワ作  1838年  ルーブル美術館蔵



ショパンと親交のあった、音楽や文学を好んだフランス人画家ドラクロワによるショパンの肖像画。
ショパンが亡くなったかためでしょうか、未完成作品です。筆致が荒い。
ドラクロワは前回記事にしました。


ショパンとドラクロワの間には12歳年の差がありましたが、お互いに尊敬し合っていたようです。
祖国を離れ、生涯の多くをフランスで過ごしたショパン。彼の父はフランス人だった為か、
ドラクロワを父(無理があるかな)か兄のように慕っていたのではないでしょうか?


今年2010年はショパン生誕200周年ということで、あちこちでショパンにちなんだコンサートが
開催されているようですね。


1810年ポーランドのワルシャワ近郊で生まれたショパンは4歳頃ピアノを始め、
7歳から本格的に指導を受け、この年で最初のポロネーズを作曲したと言われています。
16歳でワルシャワ音楽院に入学。卒業後ウィーンやプラハで音楽会を開き、成功を収めました。


1830年20歳の時、ポーランドの情勢悪化に伴い国を後にし、ウィーンに向かいます。
同年11月ワルシャワでロシア支配に対する民衆の蜂起が起こりますが、翌1831年
ロシア軍により鎮圧されてしまいます。


パリに向かう途中シュトゥットガルトでその報せを聞いたショパンが、失望と怒りから「革命」を
作曲したというエピソードがあります。


「革命」は確かにそんなエピソードが生まれるのも頷けるほど、ピアノの旋律が大変ドラマチックです。
激しさと哀しさと、でもどこか冷静さが感じられるのはやはり練習曲(エチュード)だからでしょうか。
(特に左手の練習曲)


ちなみに「革命」というタイトルはショパンが曲を献呈したリスト(作曲家)によるものです。
通常ショパンは、曲に通称は付けませんでした。
制作年や時代背景からも、革命と名付けられてもおかしくありませんね。


私もこのピアノの響き、大好きです。「革命」、ぴったりだと思います。


You tube から曲を up してみました。よければ革命を聴いてみて下さい。
演奏がブーニン(旧ソ連)というのはちょっと皮肉な感じもしますが・・・。ごめんねショパン。
一世を風靡したブーニンの若かりし日の姿も合わせてお楽しみ下さい。



それでは、どうぞ! ※注:当たり前ですが音が出ます。(笑)








パリに来てからショパンは、ドラクロワ、詩人ハイネ、リスト、メンデルスゾーンらに出会います。
音楽活動が認められ、作曲家としての名声は不動なものとなりました。


26歳の時、フランス人女流作家ジョルジュ・サンドと恋におち、マジョルカ島に逃避行します。
しかし結核だったショパンの具合は悪化、マジョルカ島を離れジョルジュ・サンド邸で療養後、
パリに戻り音楽活動を再開します。


33歳頃から体調を崩し始めます。36歳でジョルジュ・サンドと別れ、38歳になる1848年、
フランス2月革命ではパリを発ち一時ロンドンに身を置きます。


翌1849年10月17日パリで39年の生涯を終えました。
パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されましたが、看病に駆けつけていたお姉さんによって
心臓だけが祖国ポーランドに帰国し、ワルシャワの聖十字架教会に納められています。


病弱とはいえ、若くして人生に終止符を打つことになるとは本人も思っていなかったでしょう。
20歳で祖国ポーランドを後にし革命に翻弄され、短い生涯ではあったものの、
その人柄から友人に恵まれ、音楽家としてその才能を開花させたショパンですが、
二度と祖国の地を踏むことなく、異国の地で亡くなったことを思うと不憫でなりません。




パリにあるロマン派美術館ではショパン生誕200周年を記念して、
フレデリック・ショパン ブルーノート展 "Frédéric Chopin La Note bleue" が開催されています。


元々はオランダ人画家シェフェール邸で、ロマン主義時代の芸術家たちのサロンでした。
ショパンやジョルジュ・サンドも通ったこの館に、同時代の画家たちの作品が展示されています。




フレデリック・ショパン ブルーノート展 "Frédéric Chopin La Note bleue"
2010年7月11日まで

ロマン派美術館 Musée de la Vie romantique
16, rue Chaptal 75009 Paris
ホームページ

# by pinkfleur | 2010-06-09 18:52
2010年 06月 05日

ドラクロワ -革命を描いた画家-


4月生まれの画家のひとり、フェルディナン・ヴィクトワール・ウジェーヌ・ドラクロワ

Ferdinand Victor Eugène Delacroix  1798年4月26日 - 1863年8月13日



ドラクロワは4月生まれ。私が4月生まれなので、4月に生まれた画家を取り上げています。



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墓地の孤児(少女) Jeune orpheline au cimetiére   1824年  ルーブル美術館蔵



「墓地の中で習作のためにポーズをとってくれた乞食女に7フラン」
1824年2月17日 ドラクロワの日記より


ドラクロワが墓地にいた少女をモデルに描いたそうです。 
次に掲げる「キオス島の虐殺」の画面左端、無表情の男性にすがりついている少女の顔に利用しています。


「ドラクロワ」というと、フランス7月革命の絵が最も有名かもしれませんが、私はこの烈しい目をした少女の絵が1、2と順位をつけ難い位好きです。



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キオス島の虐殺
Scènes des massacres de Scio   1823~24年頃  ルーブル美術館蔵



左端の少女がそうです。


1821年オスマン帝国(トルコ)の圧政からの解放を訴えギリシャ国内で暴動が起こり、それらを鎮圧するためオスマン・トルコ軍による大虐殺が行われました。


この作品は1822年4月オスマン・トルコ軍によるギリシャ・キオス島住民虐殺を描いたもので、あまりの生々しさに物議をかもした作品。 虚空を見つめる老いた女性が印象的です。




ロマン派を代表する画家ドラクロワは、1798年4月26日、パリに近いシャラントン・サン・モーリスで生まれました。


父は、ナポレオンの時代の大使シャルル・ドラクロワ(タレーランが父親という説もあります)
母の名はヴィクトワール、ルイ16世御用達宮廷家具製造家の娘でした。
ドラクロワには、19歳年上の長兄、18歳上の姉、そして14歳上の次兄がいました。年齢の開きからもタレーラン説と結びつけてしまいそうです。


1817年ドラクロワ19歳の時、新古典主義のゲランに弟子入りし、そこでロマン派の先駆け、ジェリコーと出会います。 写実性や安定した構図を求められた新古典主義がまだまだ主流だった時代、人の内面を感情的に描くロマン派は認められていませんでした。


そして新古典主義からロマン主義への移行期の途中、ジェリコーが若くして亡くなってしまいます。


ドラクロワは孤立無援状態になったものの、内面の動きを描き続け(時には荒々しいまでに)かつ写実性に欠くことなく色彩を豊かに表現し、ロマン派の礎を築き、発展させ世間に認めらるようになりました。


そしてその鮮やかな色彩表現力は、後の印象派画家たちに大きく影響を与えます。



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1830年の7月革命を描いたドラクロワの代表作 

民衆を率いる自由の女神 1830年7月28日
La Liberté guidant le peuple – Le 28 juillet 1830
  1830年  ルーブル美術館蔵



自ら生き証人として7月革命を描いたこの作品は、彼の代表作となりました。


ドラクロワは自由の女神の左側、シルクハットを被って登場しています。
自由の女神の右側、ピストルを持った少年は、ユゴー「ラ・ミゼラブル」に出てくる浮浪児ガブロッシュ。


7月革命・・・
1789年に勃発したフランス大革命、その後のナポレオンによる支配・失脚を経て、1814年からナポレオンの百日天下を挟むものの、1830年の7月革命まで王位に就いたルイ16世の生き残っていた弟たち プロヴァンス伯とアルトワ伯。


ブルボン家の頭上に再び王冠を取り戻した、というよりはナポレオン失脚後、連合諸国によって「あいつでいいんじゃない?」的に選ばれ、玉座に座ることができたラッキー感は否めません。


ルイ16世の処刑に少なからず「罪悪感」を抱いていたフランス国民たちは、亡命し諸国をさすらい続けていたブルボン家の生き残り一家を喜んで迎え入れます。


しかしルイ18世となったプロヴァンス伯は比較的穏健な政策をとりつつも、ナポレオン百日天下後の、ナポレオン一派の粛清と、そしてルイ18世の死去後、シャルル10世となったアルトワ伯のアンシャン・レジーム、いやルイ14世時代的の絶対王政的な政策で国民の不満がまたまたドカーンと爆発、7月革命が起こり退位を余儀なくされました。
(弟さんたちよ、ルイ16世の死から学習して下さい・・・)



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ディエップの高みから見た海 
La mer vue des hauteurs de Dieppe  1852年  ルーブル美術館蔵



イギリス海峡を望むノルマンディー、ディエップの海
19世紀中頃まで海は恐ろしいものと思われていましたが、それが一転ブルジョワジーのリゾート地となりました。


ドラクロワの作品中、私の中では、トップに掲げた少女の絵と1、2を争う作品。(笑)
夕陽に染まる雲間に覗く青い空と、金色に光輝く海。ああ、いつまでも眺めていたい風景です!!


激動の混沌とした時代のフランスに生き、自身を絵画の世界の革命家とみなし、旧体制とは永遠におさらば、新しい道を突き進むぞといった7月革命を描いた彼だからこそ、後年、見るものを穏やかな気持ちにいざなうこの一枚を描けたのかもしれないなぁ、なんて思います。


その後も様々な絵を描き続けたロマン派の代表選手ドラクロワは、1863年パリで亡くなり、ペール・ラシェーヌ墓地で永遠の眠りについています。



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ウジェーヌ・ドラクロワの肖像
Portrait d’Eugène Delacroix
  1837年  ルーブル美術館蔵

# by pinkfleur | 2010-06-05 20:32
2010年 05月 30日

ジュ・ド・ポーム - Jeu de Paume -


テニスというと真っ先に浮かぶのは、やっぱりウィンブルドンでしょうか?


私にとってテニスの聖地とは、美しいグリーンの芝のウィンブルドンも大好きなのですが、フランス・パリ郊外ブローニュの森にある「ロランギャロス」です。


グランドスラム開催地の中で、唯一観戦したことのある思い出深いスタジアムです。


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記念のパンフレット


テニスのグランドスラム、世界4大大会の一つ、全仏オープン開催地 –Roland Garros – ロランギャロス


現在その全仏オープン真っ只中、クルム伊達公子選手が1回戦を突破したものの、残念ながら2回戦で敗れてしまいましたね!


ずい分昔の話ですが、ロランギャロスに行きたい!と宿泊していたパリのホテルのスタッフにお願いしたところ、なんとセンターコートのチケットを手配してくれたのです!
おかげで観戦することができました。あの時は本当にうれしかった!Merci beaucoup! 


その時のチケットです。まさかブログで日の目(?)を見ることになるなんて!


ジュ・ド・ポーム - Jeu de Paume -_e0190118_14412686.jpg


そのスタッフから「記念にピンバッチを買ってきてほしい」とお金を預かり、「お安いご用!」と帰って手渡すと、「僕も本当は行きたかった!」とうれしそうにピンバッチを眺めていました。
テニスはフランス人にとって、サッカーに次いで人気の高いスポーツなんだそうですね。


8世紀フランスで生まれたテニスの原型といわれるゲームはその後、手のひらやグローブでボールを打ち合うことからジュ・ド・ポーム(仏語 jeu 遊び paume 手のひら、手のひらゲーム)と呼ばれ、王侯貴族の間で流行します。


17世紀に入り、ルイ13世がヴェルサイユに建てた球戯場(1630年建設・現在の体育館のようなもの)を息子のルイ14世は、ヴェルサイユ宮殿が完成(1682年)する2年前の1680年に取り壊してしまいます。宮殿建築の際、何か理由があったのではと思います。 ・・・単に邪魔だったのかな。


このルイ14世が取り壊した球戯場の遺構が2007年に発見されたそうです。 こちら ↓


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ヴェルサイユ宮殿が所有する絵画の保管場所(地下)増設工事中に発掘されたそうで、場所は宮殿向かって左の隣接地、ルイ14世が取り壊した後、軍事病院だった所。
ビリヤードを好んだルイ14世ですが、やはりジュ・ド・ポームもたしなんでいたようで1686年、宮殿からすぐの場所に球戯場を造っています。


後にこの球戯場は、世界史でおなじみ「テニスコートの誓い」の舞台となりました。


1789年6月20日、フランス革命(1789年7月14日)勃発直前、第三身分の代表者たちが国王に国民議会を認めさせること、そして憲法制定が実現するまで議会は解散しないということを誓い、結束を固めた場所。


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ジャック・ルイ・ダヴィッド作 「テニスコートの誓い Serment du Jeu de Paume」


中央で立って手を上げているのが議長「バイイ」 
彼から右に4人目、両手を胸に当て顔を上に向けているのが「ロベスピエール」 
さらに右3人目、左手に帽子を持ち右手を上げているのが「ミラボー」 
そしてその隣が「バルナーブ」

(弁護士バルナーブは、国王一家のヴァレンヌ逃亡事件の際、パリへ連れ戻される一家の馬車に同乗する人物。実際一家と接した彼は、醜聞まみれの一家像(とりわけマリ-・アントワネット)とはかけ離れていることを知り、以降王一家を庇護する立場を取るようになります。)


今あげた4人の誰一人として、革命後を生き延びることはできませんでした。
ミラボーは革命の大嵐が吹き荒れる前(1791年)に病死。 残る3人はギロチン死します。


彼らだけでなくこの日、球戯場にいた革命家の一体どれくらいの人達が、その後の人生を全うすることができたのでしょうか。


皆、若かった(若くない人もいましたが)、若さと熱気が満ち溢れたこのヴェルサイユの球戯場において、この日この瞬間に、実は革命の火蓋が切って落とされたのではないでしょうか。


この球戯場は現存し、見学することができます。


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こちらがその球戯場(ウィキペディアに内部写真が掲載されています→球戯場の誓いで検索してみて下さい)

地図を載せてみました。赤い目印のところ。 球戯場 "La salle du Jeu de Paume"

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拡大

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さらに拡大

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ヴェルサイユ観光局のホームページによると、ガイド付き見学となり要予約とあります。
8月28日までは催行されるようです。(それ以降の日にち未表示)


毎週土曜日 15時から
料金 大人8ユーロ 子供4ユーロ(8~17歳)
球戯場(Salle du Jeu de Paume)住所 1 rue du Jeu-de-Paume, 78000 Versailles
ヴェルサイユ観光局HP
 ← クリックしてみて下さい


ヴェルサイユ観光局でも予約はできるようですが不確かですので、HPからメールで問い合わせをされる方がよいと思います。


また、ヴェルサイユ宮殿にも同じくダヴィッド作、未完成の「テニスコートの誓い」が展示されています。


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先に掲げた絵との位置関係からすると、右端の美男子はミラボー伯・・・ということですね??え~?!



話は現代のテニスに戻りまして・・・


球足の遅いクレーコートでは試合時間が長時間に及びがちなため、相当なスタミナを要求されるロランギャロス。
芝コートでは球足が速くなり、サーブアンドボレーといわれるプレースタイルのウィンブルドンでは、瞬発力や強力なサーブが不可欠。
どちらもそれぞれに魅力的(あ、全豪や全米のハードコートもね!)。


このグランドスラム、最初に開かれたのは1877年ウィンブルドン選手権。
ウィンブルドンというと白のウェアにシューズがお約束となっています。


初めてウィンブルドンのセンターコートに立って、片膝をちょこんと曲げてロイヤルボックスに会釈をする伊達公子さんの姿を昨日のことのように憶えています。


しかし私にとってのウィンブルドンは、ダイアナ元皇太子妃です。


ピート・サンプラスのファンだったダイアナさん、ロイヤルボックスに立って微笑んでいた姿は忘れられません。


イギリスでも若い人の中には、もはや彼女を知らない人がいるそうです。


全仏は今日で折り返し、全英は6月21日から始まります。
久しぶりにテニスをやってみたくなりましたが、ラケットは実家、テレビ観戦を楽しむことにします!

# by pinkfleur | 2010-05-30 16:15 | ヴェルサイユ宮殿
2010年 05月 23日

La cocarde tricolore ~三色帽章~


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「三色帽章」を着けたフランス国王ルイ16世 (黒い帽子の右、赤く丸いコサージュみたいなもの)



写真はルイ16世一家が逃亡の末逮捕された街、ヴァレンヌにあるアルゴンヌ美術館を訪れた時のもの。
(2008年4月)



1789年7月17日バスチーユ陥落から3日後、パリ市庁に来たルイ16世は、パリ市長バイイ(バイイも断頭台の露となる)からこの三色帽章を受け取りました。



三色帽章とは革命のシンボル、今のブローチのようなもので赤白青の三色から成っており、これが今日のフランス国旗の由来となっています。



この三色帽章の発案者は国民衛兵軍の指令官ラファイエットか、はたまた前出の市長バイイかそれぞれが主張していたようで、現在でも特定に至っていません。(どっちでもいいです。)



帽章そのものは革命期に突如として表れたものではなく、ルイ15世16世の時代、上流社会や軍人の間で、自分の所属するグループ(思想などを表明する)のアクセサリー的なものとして存在していました。



それが革命勃発と同時に赤白青の三色帽章が作られ革命の証として大流行し、さらにはこの三色帽章の着用が義務付けされ、着けていないと投獄、おそらくはギロチン行きの刑が科せられたようです。



三色の赤と青はパリの色、白は国王の色を表しています。



この国王の白色の由来は、メロヴィング朝のクロヴィス1世が天使から百合の花を与えられたという伝説からのようです。



以降白はブルボン王朝が没するまで国王、王家の色となります。



しかし12世紀末になって初めて登場する「フランス国王の紋章」は、青地に金色の百合の花があしらわれています。 紋章用語としての青(仏語)は、bleu ではなく azur となります。
青を紋章に初めて使ったのはフランス国王で、その青を使用するきっかけとなったのがサン・ドニ修道院院長のシュジェール(1081-1151)の存在が大きく影響しています。



12世紀半ば、シュジェールは美しい宝石サファイアの青を神聖な光と捉え、それまで教会で使用されていなかった青色を修道院建設時ステンドグラスに用い、青を世間に認知させていきます(反対派もいたようですが)。
サン・ドニの青と言われ、それが西に進んでシャルトルの青、ルマンの青と拡がっていきました。



シュジェールが結果、聖母マリアにイメージ付けした「青」を、フランス国王はカペー王朝(ブルボン家の祖)の守護者である聖母マリアを称え、紋章に取り入れたのでした。



シュジェールをもって、初めて王家と青色、が結びついたのでした。それまでに王家と青色に縁はありません。



さらにそれまで青はくすんだ色で職人や農民の作業着の色だったようですが、染色技術の進歩で明るい青を表現することが可能となり、13世紀初頭、ルイ9世が聖母マリアを真似て青い服を着始めます。
青を着た最初の君主です。そしてあっという間に衣装に青、は王侯貴族の間でブレイクします。



以降、王族(フランス)の衣装には、青地にこれまた紋章に組み込まれている百合の花が織り込まれることになったのでしょうね。



話は飛んで(戻って)三色帽章から発展した三色旗は、1814年~1830年の王政復古時(ルイ18世・シャルル10世いずれもルイ16世の弟)には一時廃止され、国王ひいては王家の色の白地に百合の花をあしらった旗が登場していました。



この時代はすっかり反革命派色となってしまっていたのですね。・・・ボソ。

# by pinkfleur | 2010-05-23 18:45 | アントワネット関連・人・事
2010年 05月 16日

マリー・アントワネットと王太子ルイ・オーギュストの結婚式


1770年5月16日 今から240年前の今日、ヴェルサイユ宮殿王室礼拝堂にてマリー・アントワネットと
王太子ルイ・オーギュスト(ルイ16世)の結婚式が執り行われました。

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こちらが王室礼拝堂。 建築は宮殿と同じく ジュール・アルドゥアン・マンサール氏 1710年完成。


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ヴェルサイユ宮殿専属ガイド(仏語または英語)の案内で2008年秋、一般非公開の王室礼拝堂の内部を
見学しました。 
専属ガイド付きツアーでないと中に入ることはできません。


通常礼拝堂は、一階か二階の入り口から中を覗くのが精一杯です。(しかも人の頭ばっかり・・・!) 
お時間のある方は、ぜひ一度、専属ガイド付きツアーで非公開の部屋等を訪問されることをお薦めします。
18世紀へタイムスリップすること請け合いです。


見学した時、いよいよ夢にまで見た王室礼拝堂に入れる! 
アントワネットが、ルイ16世が、そしてルイ15世や王家の人々が歩いた同じ場所を歩くことができるなんて!
という思いで一杯でした。 


ドキドキしながら、でも気を引き締めて、一歩一歩噛みしめるように礼拝堂を歩きました。


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太陽の光が燦々と差し込む礼拝堂は、彩りどりを添えるように着飾った大勢の貴族たちでひしめき合っていました。 さぞかしきれいだったことでしょうね。


この日ヴェルサイユ宮殿には6000人もの貴族たちが集まったそうですが、礼拝堂に入ることが許されたのはわずかに過ぎません。


彼らの視線はただ一点、未来の国王ルイ16世と未来の王妃マリー・アントワネットに注がれたことでしょう。


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フレスコ画が美しい天井。 穴が開いているのはシャンデリアの跡ですね。


図録 MARIE-ANTOINTTE(仏語) では、結婚式の模様をクロイ公爵の日記から一部、引用しています。


訳してみました。


セレモニーは、5月16日の13時から14時の間、ランスの大司教によって執り行われました。


まずルイ15世が先頭に立ち、王子たちを先導します。 
続いて王太子ルイ・オーギュストと彼に手を携えたマリー・アントワネットが入場します。
さらに70人の貴族たちが後に続きます。


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ここを歩いたんだとしみじみ思いました。


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ブルボン家歴代国王のファーストネーム LOUIS(ルイ)の頭文字 L が見えます。


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天使も祝福したんだろうな。


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祈祷台まで来ると国王は退き、35人の既婚の貴族女性たちと青綬を着けた男性貴族たちが新郎新婦を囲み進行を手伝い、ランスの大司教による結婚式は滞りなく終了します。


ブルボン家とハプスブルグ家、この両家の縁組はどちらかが優位というわけでもなく、非常にバランスのとれたもので、この日この上もない豪華で厳かで、そして優雅な世界が繰り広げられました。


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その様子が描かれた一枚  

" Cérémonie du mariage de Louis Auguste, dauphin de France, avec l'archiduchesse
Marie-Antoinette " 

" 王太子ルイ・オーギュストと王太子妃マリー・アントワネットの結婚式 "   ヴェルサイユ宮殿蔵

作者(デッサンのみ)Claude Louis Desrais  図録 " MARIE-ANTOINETTE " rmn刊 より


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人気(ひと気)のない現在の王室礼拝堂からはなかなか想像できませんが、花嫁のアントワネットは言うまでもなく、王太子ルイ(ルイ16世)や兄弟姉妹、ルイ15世たち、おば上たちの正装した姿はさぞ美しかったことでしょうね。


タイムマシーンがあったら覗いてみたい光景のひとつです。

# by pinkfleur | 2010-05-16 22:21 | ヴェルサイユ宮殿