ヴェルサイユの花 ~Fleur de Versailles~                         

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2010年 06月 24日

フランス語


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愛読誌 OVNI パリで発行されている日本語のニュースペーパー

フランスの政治・社会のニュースや文化情報などが掲載されていて、なかなか面白い♪




なぜフランス語を勉強しているの?と、よく訊かれる。




フランス語学校の先生(先生は全員フランス人)に訊かれて



「フランスの歴史、特にフランス革命に興味がある。」と答えると、
ほとんどの先生の目は一瞬キラッと輝き、
満面の笑みで「へえー!そうなの!」と返ってくる。



だけどその後「マリー・アントワネットに興味がある」と答えると反応は様々(笑)。
ベルサイユのばらを知ってる?って(フランス人に)教えられたり(笑)。



学校仲間たちの理由も様々。



仏系企業勤務のAさんは「フランス人たちが何をしゃべっているのか聴きたいし、
文句の一つでも言ってやろうと思って」


・・・・・ な、なるほど!



医学生のBちゃんは、「フランス語を話したかったから。大学でも第二で選択してるし。」


なるほど。いろいろなことに興味を持ってやりたいことをやるのが一番よね。



他に料理修業でフランスに行くという人や、カメラマンもいた。(すでに渡仏しちゃいました)



欧州某国大使館勤務のCさんは、その国の言語ではなく
フランス語を勉強する理由は、英語以上にフランス語が要求されるとのこと。
確かに世界の上流社会ではフランス語は必須。
晩餐会でもフランス料理が正式ディナーだもんね。



このCさん、プライベートでご一緒したことがあるんだけど、まあよく気がつく人で親切。

博識で会話も楽しく、また慇懃無礼なこともなくとっても謙虚。
美人な才女というか才色兼備とはこういう人のことをいうのだなと、
彼女を通して「日本人女性」のすばらしさが
そこの国に伝わっていると思うとうれしい。
私は彼女のファンなのであります。




フランス語に戻りますが、勉強する理由として最も多いのは
「フランスが好き。フランスで少しでもフランス語でしゃべりたいし理解したい。」
もちろん私もそう。



前述の「マリー・アントワネットやフランス革命に興味がある」
というのは動機となったわけだけど



もっと突っ込んだ理由は



マリー・アントワネットがフランス語を話していたから。



彼女が話していた言語、フランス語を話したいと思った。
フランス語とはどういう言葉なのか、どう話していたのかを知りたくなった。



さらに


①マリー・アントワネットに関する書籍や資料をフランス語のまま読みたいから。
 (日本語の資料が少ない)



②今も実行してるけど、フランスを訪れて彼女の足跡や縁の地(史跡)を訪ね
そこにある説明書きを読んだり、また人に質問してやりとりに困らないように。



①に関しては、難しいものもあるしスイスイとはいかないけれど、
辞書があればなんとか、というものもあって手応えを感じられるようになってきた。



②の説明書きはそもそも人が読むのにわかりやすく端的に書かれているものが多く
史実を知っていれば理解できるものが多い。のでこれもクリアー。



だけど、本当の本当の理由は(まだあるんかいな)・・・



マリー・アントワネットの遺書を原文そのまま、一文字、一語たりとも漏らさず読みたいから。



和訳されたものは何度となく読んでいるので内容はいやというほど知っている。



だけどそれは誰かが訳したものであって、彼女の言葉ではない。
自分で訳したって、訳せた自己満足しか残らない。



私はフランス語で理解したい。



マリー・アントワネット展で遺書の現物を前に、そこに彼女の涙の跡を見て
なんともいえない気持ちで胸がいっぱいになった。



今までコピーを見ても何も心に響かなかった。 
涙の跡も紙の汚れもコピーでしかなかった。



最期の最期にしたためたその紙きれに
訳さないでフランス語でしっかり読みますから、と誓ったのでした。



でもまだしっかり読む勇気がないのよね・・・。




フランス語は難しい。だから楽しい。



語学は数か月でマスターできるようなものじゃない。
いきなり会話を始めても長続きしない。
この単語何?って辞書を引いても載っていない。
動詞の活用だったりする。



近道なんてない。
文法の基本のキから勉強しないとダメ。
時間はかかっても結局それが近道だったりする。



いや、語学習得に近道はなし。(どっちやねん)



今のところ、目的を同じとした「同士」に会ったことはないけれど
学校では「フランス語」が好きという「同士」がたくさんいる。
その方々との交流もいい刺激になっています。
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by pinkfleur | 2010-06-24 23:58
2010年 06月 23日

王妃のボンボン


ヴェルサイユに行ったらみなさんは何をお土産に選ばれますか♪

いろいろたくさんありますが私が好きなのは・・・


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ヴェルサイユの果樹園で作られているリンゴのボンボン(キャンディ)です♪

これめちゃんこおいしい~♪ 

昨年二袋購入、一袋はあっという間に食べちゃいましたが、あと一袋は冷蔵庫に保管中~♪



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1678年 ルイ14世がヴェルサイユに王室菜園を建設。

珍しくて希少性のある果物などを栽培していたそうです。



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ほどよい甘酸っぱさ♪ 

外側は普通のキャンディー、中からとろーり、ピュレが出てきておいしさ倍増です♪



「あめちゃん」に目がないあめちゃん大王(笑)の甥っ子、一粒口に入れた途端

「おいしい!」と、目を輝かせ「もう一個ちょうだい」とねだる彼。

妹の見ていないスキに「たまにはええやんな~、ほれ!」とボンボンを渡しつつ、

やっぱり教育上よくないという気持ち半分、このままではなくなってしまうという危機感半分から

「あともう一個!」と、まだまだねだり続ける「あめちゃん大王様」に

「あとは明日!」と言いきかせた私なのでした。



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€4.20 なり♪ お土産にいかがですか♪
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by pinkfleur | 2010-06-23 23:40 | アントワネットコレクション
2010年 06月 10日

ミタウ宮殿



1799年の今日6月10日
革命後唯一生き延びたマリー・アントワネットとルイ16世の忘れ形見、マリー・テレーズが
従兄のアングレーム公と、クールラント(現ラトヴィア共和国)のミタウにて結婚式を挙げました。


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結婚式を挙げたミタウ宮殿   亡命中のブルボン王家一家は1798年から1780年までここで暮らしました。
(現在はラトヴィア農業大学が使用)



1799年5月、マリー・テレーズは従兄ルイ・アントワーヌ・アングレームとの結婚のため
ウィーンを発ち、ミタウに向かいました。


従兄アングレーム公とは、ルイ16世の末弟アルトワ伯の長男です。


ロシア皇帝パーヴェル1世の厚意により、ルイ16世の弟たち一家はミタウ宮殿で
暮らしていました。


ミタウの地で彼女を待っていたのは懐かしいブルボン家の人々、亡命中の貴族たち。
彼等と涙の再会を果たします。


叔父のルイ18世(プロヴァンス伯)とはヴァレンヌへの逃亡時チュイルリー宮殿で
別れてから8年ぶり。
アルトワ伯(後のシャルル10世)や婚約者で従兄のアングレーム公とは
革命勃発時以来10年ぶりの再会となりました。


そして最も彼女との対面を願い続け、この日を待ち焦がれていた人はおそらく、
ルイ16世の最期の証人エッジウォルト神父だったのでは、と思います。


ルイ16世の聴聞司祭となったエッジウォルト神父は、タンプル塔から処刑場まで
ルイ16世に付き添い、断頭台の下で彼の最期を見届けました。


エッジウォルト神父はマリー・テレーズを前に涙にくれ、言葉になりませんでした。
父王の最期を聴いたマリー・テレーズはどういう気持ちだったのでしょう。
新たな悲しみと同時に憎しみも増幅したかもしれません。
けれども安堵の気持ちも生まれたのでは・・・と思います。
それは、もうこれ以上悲しい事実を聞かされることはないからです。


タンプル塔で過ごしたルイ16世一家のうち、マリー・テレーズだけが
生き残ることができたのです。


恐怖政治が終わったあと、彼女を待っていたのは母、叔母エリザベト、弟の死でした。
それぞれの最期を知り、あとは父王の死を間近で見たエッジウォルト神父から
話を聴くだけでした。



エッジウォルト神父はマリー・テレーズの結婚式の介添えを努めました。
新郎新婦はもちろん、この場にいたすべての人が感無量だったことでしょう。


結婚式当日パーヴェル1世から贈られたダイヤモンドの首飾りを着けた
マリー・テレーズは美しかったに違いありません。



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マリー・テレーズ17歳頃  Heinrich Friedrich Füger 作  1795年 


父、母、弟が装飾されたカメオを身に付けています。
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by pinkfleur | 2010-06-10 23:46 | アントワネット関連・人・事
2010年 06月 09日

ショパン -生誕200年ー



ポーランドに生まれ、フランス・パリで永遠の眠りについた作曲家フレデリック・フランソワ・ショパン


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Frédéric François Chopin  1810月3月1日(2月22日説あり) - 1849年10月17日

フレデリック・フランソワ・ショパンの肖像  ドラクロワ作  1838年  ルーブル美術館蔵



ショパンと親交のあった、音楽や文学を好んだフランス人画家ドラクロワによるショパンの肖像画。
ショパンが亡くなったかためでしょうか、未完成作品です。筆致が荒い。
ドラクロワは前回記事にしました。


ショパンとドラクロワの間には12歳年の差がありましたが、お互いに尊敬し合っていたようです。
祖国を離れ、生涯の多くをフランスで過ごしたショパン。彼の父はフランス人だった為か、
ドラクロワを父(無理があるかな)か兄のように慕っていたのではないでしょうか?


今年2010年はショパン生誕200周年ということで、あちこちでショパンにちなんだコンサートが
開催されているようですね。


1810年ポーランドのワルシャワ近郊で生まれたショパンは4歳頃ピアノを始め、
7歳から本格的に指導を受け、この年で最初のポロネーズを作曲したと言われています。
16歳でワルシャワ音楽院に入学。卒業後ウィーンやプラハで音楽会を開き、成功を収めました。


1830年20歳の時、ポーランドの情勢悪化に伴い国を後にし、ウィーンに向かいます。
同年11月ワルシャワでロシア支配に対する民衆の蜂起が起こりますが、翌1831年
ロシア軍により鎮圧されてしまいます。


パリに向かう途中シュトゥットガルトでその報せを聞いたショパンが、失望と怒りから「革命」を
作曲したというエピソードがあります。


「革命」は確かにそんなエピソードが生まれるのも頷けるほど、ピアノの旋律が大変ドラマチックです。
激しさと哀しさと、でもどこか冷静さが感じられるのはやはり練習曲(エチュード)だからでしょうか。
(特に左手の練習曲)


ちなみに「革命」というタイトルはショパンが曲を献呈したリスト(作曲家)によるものです。
通常ショパンは、曲に通称は付けませんでした。
制作年や時代背景からも、革命と名付けられてもおかしくありませんね。


私もこのピアノの響き、大好きです。「革命」、ぴったりだと思います。


You tube から曲を up してみました。よければ革命を聴いてみて下さい。
演奏がブーニン(旧ソ連)というのはちょっと皮肉な感じもしますが・・・。ごめんねショパン。
一世を風靡したブーニンの若かりし日の姿も合わせてお楽しみ下さい。



それでは、どうぞ! ※注:当たり前ですが音が出ます。(笑)








パリに来てからショパンは、ドラクロワ、詩人ハイネ、リスト、メンデルスゾーンらに出会います。
音楽活動が認められ、作曲家としての名声は不動なものとなりました。


26歳の時、フランス人女流作家ジョルジュ・サンドと恋におち、マジョルカ島に逃避行します。
しかし結核だったショパンの具合は悪化、マジョルカ島を離れジョルジュ・サンド邸で療養後、
パリに戻り音楽活動を再開します。


33歳頃から体調を崩し始めます。36歳でジョルジュ・サンドと別れ、38歳になる1848年、
フランス2月革命ではパリを発ち一時ロンドンに身を置きます。


翌1849年10月17日パリで39年の生涯を終えました。
パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されましたが、看病に駆けつけていたお姉さんによって
心臓だけが祖国ポーランドに帰国し、ワルシャワの聖十字架教会に納められています。


病弱とはいえ、若くして人生に終止符を打つことになるとは本人も思っていなかったでしょう。
20歳で祖国ポーランドを後にし革命に翻弄され、短い生涯ではあったものの、
その人柄から友人に恵まれ、音楽家としてその才能を開花させたショパンですが、
二度と祖国の地を踏むことなく、異国の地で亡くなったことを思うと不憫でなりません。




パリにあるロマン派美術館ではショパン生誕200周年を記念して、
フレデリック・ショパン ブルーノート展 "Frédéric Chopin La Note bleue" が開催されています。


元々はオランダ人画家シェフェール邸で、ロマン主義時代の芸術家たちのサロンでした。
ショパンやジョルジュ・サンドも通ったこの館に、同時代の画家たちの作品が展示されています。




フレデリック・ショパン ブルーノート展 "Frédéric Chopin La Note bleue"
2010年7月11日まで

ロマン派美術館 Musée de la Vie romantique
16, rue Chaptal 75009 Paris
ホームページ
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by pinkfleur | 2010-06-09 18:52
2010年 06月 05日

ドラクロワ -革命を描いた画家-


4月生まれの画家のひとり、フェルディナン・ヴィクトワール・ウジェーヌ・ドラクロワ

Ferdinand Victor Eugène Delacroix  1798年4月26日 - 1863年8月13日



ドラクロワは4月生まれ。私が4月生まれなので、4月に生まれた画家を取り上げています。



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墓地の孤児(少女) Jeune orpheline au cimetiére   1824年  ルーブル美術館蔵



「墓地の中で習作のためにポーズをとってくれた乞食女に7フラン」
1824年2月17日 ドラクロワの日記より


ドラクロワが墓地にいた少女をモデルに描いたそうです。 
次に掲げる「キオス島の虐殺」の画面左端、無表情の男性にすがりついている少女の顔に利用しています。


「ドラクロワ」というと、フランス7月革命の絵が最も有名かもしれませんが、私はこの烈しい目をした少女の絵が1、2と順位をつけ難い位好きです。



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キオス島の虐殺
Scènes des massacres de Scio   1823~24年頃  ルーブル美術館蔵



左端の少女がそうです。


1821年オスマン帝国(トルコ)の圧政からの解放を訴えギリシャ国内で暴動が起こり、それらを鎮圧するためオスマン・トルコ軍による大虐殺が行われました。


この作品は1822年4月オスマン・トルコ軍によるギリシャ・キオス島住民虐殺を描いたもので、あまりの生々しさに物議をかもした作品。 虚空を見つめる老いた女性が印象的です。




ロマン派を代表する画家ドラクロワは、1798年4月26日、パリに近いシャラントン・サン・モーリスで生まれました。


父は、ナポレオンの時代の大使シャルル・ドラクロワ(タレーランが父親という説もあります)
母の名はヴィクトワール、ルイ16世御用達宮廷家具製造家の娘でした。
ドラクロワには、19歳年上の長兄、18歳上の姉、そして14歳上の次兄がいました。年齢の開きからもタレーラン説と結びつけてしまいそうです。


1817年ドラクロワ19歳の時、新古典主義のゲランに弟子入りし、そこでロマン派の先駆け、ジェリコーと出会います。 写実性や安定した構図を求められた新古典主義がまだまだ主流だった時代、人の内面を感情的に描くロマン派は認められていませんでした。


そして新古典主義からロマン主義への移行期の途中、ジェリコーが若くして亡くなってしまいます。


ドラクロワは孤立無援状態になったものの、内面の動きを描き続け(時には荒々しいまでに)かつ写実性に欠くことなく色彩を豊かに表現し、ロマン派の礎を築き、発展させ世間に認めらるようになりました。


そしてその鮮やかな色彩表現力は、後の印象派画家たちに大きく影響を与えます。



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1830年の7月革命を描いたドラクロワの代表作 

民衆を率いる自由の女神 1830年7月28日
La Liberté guidant le peuple – Le 28 juillet 1830
  1830年  ルーブル美術館蔵



自ら生き証人として7月革命を描いたこの作品は、彼の代表作となりました。


ドラクロワは自由の女神の左側、シルクハットを被って登場しています。
自由の女神の右側、ピストルを持った少年は、ユゴー「ラ・ミゼラブル」に出てくる浮浪児ガブロッシュ。


7月革命・・・
1789年に勃発したフランス大革命、その後のナポレオンによる支配・失脚を経て、1814年からナポレオンの百日天下を挟むものの、1830年の7月革命まで王位に就いたルイ16世の生き残っていた弟たち プロヴァンス伯とアルトワ伯。


ブルボン家の頭上に再び王冠を取り戻した、というよりはナポレオン失脚後、連合諸国によって「あいつでいいんじゃない?」的に選ばれ、玉座に座ることができたラッキー感は否めません。


ルイ16世の処刑に少なからず「罪悪感」を抱いていたフランス国民たちは、亡命し諸国をさすらい続けていたブルボン家の生き残り一家を喜んで迎え入れます。


しかしルイ18世となったプロヴァンス伯は比較的穏健な政策をとりつつも、ナポレオン百日天下後の、ナポレオン一派の粛清と、そしてルイ18世の死去後、シャルル10世となったアルトワ伯のアンシャン・レジーム、いやルイ14世時代的の絶対王政的な政策で国民の不満がまたまたドカーンと爆発、7月革命が起こり退位を余儀なくされました。
(弟さんたちよ、ルイ16世の死から学習して下さい・・・)



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ディエップの高みから見た海 
La mer vue des hauteurs de Dieppe  1852年  ルーブル美術館蔵



イギリス海峡を望むノルマンディー、ディエップの海
19世紀中頃まで海は恐ろしいものと思われていましたが、それが一転ブルジョワジーのリゾート地となりました。


ドラクロワの作品中、私の中では、トップに掲げた少女の絵と1、2を争う作品。(笑)
夕陽に染まる雲間に覗く青い空と、金色に光輝く海。ああ、いつまでも眺めていたい風景です!!


激動の混沌とした時代のフランスに生き、自身を絵画の世界の革命家とみなし、旧体制とは永遠におさらば、新しい道を突き進むぞといった7月革命を描いた彼だからこそ、後年、見るものを穏やかな気持ちにいざなうこの一枚を描けたのかもしれないなぁ、なんて思います。


その後も様々な絵を描き続けたロマン派の代表選手ドラクロワは、1863年パリで亡くなり、ペール・ラシェーヌ墓地で永遠の眠りについています。



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ウジェーヌ・ドラクロワの肖像
Portrait d’Eugène Delacroix
  1837年  ルーブル美術館蔵
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by pinkfleur | 2010-06-05 20:32