カテゴリ:アントワネット関連・人・事( 18 )


2011年 10月 16日

マリー・アントワネットの遺書 Le testament de Marie-Antoinette

10月16日 今日はマリー・アントワネットの命日です。



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                                  マリー・アントワネットの遺書(処刑前、義妹マダム・エリザベトに宛てた手紙)




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先日から今日のために、彼女の遺書を(フランス語の原文のまま)読んできました。
辞書に助けられました。


フランス語で理解したい、という夢が完璧ではありませんが叶いました。


今日は彼女の遺書を載せたいと思います。


そして拙い私の訳ではありますが、そちらも載せてみました。
読んでいただければ嬉しいです。


何か検索されていて、私のブログに飛んできてくださった方は
きっとマリー・アントワネットに興味がある方だと思っています。






- マリー・アントワネットの遺書について -

1793年10月16日12時15分 現在のコンコルド広場にて
処刑されたマリー・アントワネットが夫であるルイ16世の妹
マダム・エリザベトに宛てて書いた手紙のことを指します。


1792年8月タンプル塔に幽閉された国王一家
<ルイ16世、アントワネット、エリザベト、マリー・テレーズ(娘)、ルイ・シャルル(息子)>は
翌1793年1月ルイ16世が処刑され、7月ルイ・シャルルが家族から引き離され
8月にはアントワネットがコンシェルジュリ監獄に移送されました。


そして10月14日から2日間にわたる裁判の末
10月16日午前4時過ぎ、死刑判決が出た直後彼女は
1789年革命勃発以降、国王夫妻のもとに残り苦労を共にした
義妹マダム・エリザベトに最後の手紙を書きます。


この時、アントワネットは38歳になる直前、エリザベトは29歳でした。


手紙は縦23.5cm 横19cmの紙に書かれ
最後は力が尽きたのか、見張りの衛兵に止められたのか
結びの言葉がありません。


しかし読んでほしかった義妹エリザベトには届かず
エリザベトも翌1794年5月に処刑されます。
しかも息子のルイ・シャルルもタンプル塔内で亡くなります。
生き延びたのは娘のマリー・テレーズ唯一人。


手紙はロベスピエールの手に渡ってしまいます。
ロベスピエール失脚・処刑後もなおも手紙は保管され続け
王政復古後の1816年にルイ16世の弟、ルイ18世の元に届きます。
ようやく手紙は陽の目をみます。
実に23年後のことです。


その後ルイ18世の命により毎年アントワネットの命日には
フランス全土の教会において彼女の遺書が朗読されました。



※ なお、原文中、フランス語の古語はそのままにしてあります。
例えば「ここ」という意味の ici が18世紀では icy なのでそのままにしています。
また彼女のスペルミスや現代文法との違い(?)の様なものも見受けられましたが
スペルミスは誰にでもあり、まして彼女の精神状態を考えると無理もなく
原文を尊重し、私の目で確認できたものは原文のままに致しました。


※ 下記の冒頭日付の 8bre は octbre(10月)のこと。
ラテン語で oct は 8 の意味。







Ce 16 8bre, 4heures ½ du matin


C'est à vous, ma sœur, que j'écris pour la dernière fois,
je viens d'être condamnée non pas à une mort honteuse,
elle ne l'est que pour les criminels,
mais à aller rejoindre votre frère.


Comme lui innocente, j'espère montrer la même fermeté
que lui dans ces derniers moments.


Je suis calme comme on l'est quant la conscience ne reproche rien,
j'ai un profond regret d'abandonner mes pauvres enfants ;
vous savez que je n'existais que pour eux,
et vous, ma bonne et tendre sœur,
vous qui avez par votre amitié tout sacrifié pour être avec nous,
dans quelle position je vous laisse.


J'ai appris par le plaidoyer même du procès
que ma fille était séparée de vous.
Hélas la pauvre enfant, je n'ose pas lui écrire,
elle ne recevrait pas ma lettre,
je ne sais même pas si celle-cy vous parviendra,


recevez pour eux deux icy ma bénédiction.
J'espère qu'un jour lorsqu'ils seront grands,
ils pourront se réunir avec vous et jouir en entier de vos tendres soins.


Qu'ils pensent tous deux à ce que je n'ai cessé de leur inspirer,
que les principes et l'exécution exacte de leurs devoirs sont la première base
de la vie, que leur amitié et leur confiance mutuelle en feront le bonheur ;


que ma fille sente à l'âge qu'elle a, elle doit toujours aider son frère
par les conseils que son l'expérience qu'elle aura de plus que lui
et son amitié pourront lui inspirer ;


que mon fils, à son tour, rende à sa sœur tout les soins,
les services, que l'amitié peut inspirer ;
qu'ils entent enfin tout deux que, dans quelque position où ils pourront se trouver,
ils ne seront vraiment heureux que par leur union, qu'ils prennent exemple de nous.
combien dans nos malheurs, notre amitié nous a donné de consolations,
et dans le bonheur on jouit doublement quant on peut le partager avec un ami.
et où en trouver de plus tendre, de plus cher que dans sa propre famille.


que mon fils n'oublie jamais les dernier mots de son père que je lui répète
expressément, qu'il ne cherche jamais à venger notre mort.


J'ai à vous parler d'une chose bien pénible à mon cœur.
Je sais combien cet enfant doit vous avoir fait de la peine.
pardonnez-lui, ma chère sœur, pensez à l'âge qu'il a,
et combien il est facile de faire dire à un enfant ce qu'on veut,
et même ce qu'il ne comprend pas,
un jour viendra, j'espère, où il ne sentira que mieux tout le prix
de vos bontés et de votre tendresse pour tous deux.


Il me reste à vous confier encore, mes dernières pensées.
J'aurais voulu les écrire dès le commencement du procès ;
mais outre qu'on ne me laissait pas écrire, la marche en a été si rapide,
que je n'en aurais réellement pas eu le temps.


Je meurs dans la religion catholique, apostolique et romaine,
dans celle de mes pères, dans celle où j'ai été élevée,
et que j'ai toujours professée, n'ayant aucune consolation spirituelle à attendre,
ne sachant pas s'il existe encore icy des prêtres de cette religion,
et même le lieu où je suis les exposerait trop s'ils y entraient une fois.


Je demande sincèrement pardon à Dieu de toutes les fautes
que j'ai pu commettre depuis que j'existe.
J'espère que, dans sa bonté, il voudra bien recevoir mes derniers vœux,
ainsi que ceux que je fais depuis longtemps pour qu'il veuille bien
recevoir mon âme dans sa miséricorde et sa bonté.


Je demande pardon à tout ceux que je connais et à vous, ma sœur,
en particulier, de toutes les peines que, sans le vouloir, j'aurais pu vous causer.
Je pardonne à tous mes ennemis le mal qu'ils m'ont fait.
Je dis icy adieu à mes tantes et à tous mes frères et sœurs.


J'avais des amis, l'idée d'en être séparée pour jamais,
et leurs peines, sont un des plus grand regret que j'emporte en mourant,
qu'ils sachent au moins que jusqu'a mon dernier moment,
j'ai pensé à eux.


Adieu, ma bonne et tendre sœur ; puisse cette lettre vous arriver.
Pense toujours à moi je vous embrasse de tout mon cœur,
ainsi que ces pauvres et chers enfants,
mon Dieu qu'il est déchirant de les quitter pour toujours.


Adieu adieu Je ne vais plus m'occuper que de mes devoirs spirituels.
Comme je ne suis pas libre dans mes actions, on m'amènera peut-être,
un prêtre mais je proteste icy, que je ne lui dirai pas un mot,
et que je le traiterai, comme un être absolument étranger.







10月16日午前4時半


妹よ、あなたに最後の手紙をしたためています。
たった今、私は死刑判決を受けてきたところです。
死刑は犯罪人にとってのみ恥ずべきもので
私にとっては、あなたの兄上に会いに行くようにという判決なのです。


あの方と同じく無実の私は、最後の時にやはりあの方と同じように
毅然とした態度を示したいと思っています。
良心に咎めるものが何もない人がそうであるように、私も平静です。


哀れな私の子供たちを残していくことが心残りでなりません。
ご存知のとおり私は子供たちと、そして善良で優しい妹よ、
あなたのために生きてまいりました。


友情からすべてを犠牲にして私たちと一緒に留まってくれたあなたを
なんという境遇に置いていかなければならないのでしょう。


裁判の中で、娘があなたから引き離されたと聞きました。
ああ、なんてかわいそうな子なのでしょう。
私はあの子に手紙を書く気力はありません。
あの子は受け取らないでしょうから。
それにこの手紙でさえ、あなたに届くかどうかわかりません。


どうか二人の子供に代わって私からの祝福をお受けください。
いつか、あの子たちが大きくなって、あなたと一緒になり
あなたの優しいお世話を受けられるようにと願います。


二人は私がいつも言い聞かせてきたことを考えてくれますように。
それは義務を果たすことが人生において最も大切なことだということを。
互いに友情と信頼を寄せあえば幸せになれるということを。


娘は姉として、弟に優る経験と彼への愛情から、弟をいつも助けてあげますように。
息子も姉の優しい世話に対し愛情を持って応えてくれますように。


どんな境遇にいようとも、二人が仲良く力を合わせれば
本当に幸せになれるということをわかってくれますように。


私たちの例に倣ってほしい、不幸の最中にあって
互いの友情によってどれだけの慰めを得ることができたかを。
幸せなときは、それを友人と分かつことで喜びが2倍になるのです。
自分の家族以上に優しく大切に思える友人がどこにいるというのでしょう。


息子は私が何度も繰り返した父の最後の言葉を決して忘れないように。
私たちの死に対する復讐など決して考えないように。


あなたに話すのにとても胸が痛みますが
あの子がどれほどあなたを苦しめたのかわかっています。
彼を許してください。
妹よ、彼の年齢をわかってください。
子供が、自分が理解できないことでさえ
大人は望むことをいとも容易く言わせることができるのです。


いつの日か、息子があなたの愛情とその価値を理解する日が
来るものと思っています。


あなたにお伝えしておきたい最後の私の想いがまだ残っています。
裁判が始まったときから手紙を書きたかったのですが
それは許されませんでした。
それに裁判があまりにも早く進み、実際書く時間もありませんでした。


私は先祖伝来の、その中で育てられ信じてまいりました
神聖なるローマ・カトリック信仰のもと、死へ赴きます。


司祭による慰めが期待できないまま
また司祭がいらっしゃるのかどうかわかりませんが
いずれにせよ私のところに来ていただくのは
あまりに危険な目に晒してしまいます。


私は生まれてから今までに犯した全ての罪に対し
心から神に許しを乞います。


私の最後の願いが神のご慈悲によりお聞きいただけますように。
これまで長い間祈りを捧げてきたのと同じく
私の魂が神のご慈悲により許されますように。


私がみなさまに、とりわけあなたに、知らず知らずのうちに
与えた苦しみをどうかお許しください。


私に敵対する者が加えた危害を私は許します。


この場で叔母様方、兄弟姉妹のみなさまに最後のお別れを申し上げます。


私にも友達がありました。
永遠に会えないことを思うと、そして彼らの苦痛を考えると
死に臨んで最も心残りなことです。


最後の瞬間まで彼らのことを思っていたことを
せめてわかってもらえますように。


さようなら、善良で優しい妹よ。
どうかこの手紙があなたに届きますように。
いつも私のことを想っていてください。


あなたと、愛しい哀れな子供たちを心から抱きしめます。


神よ、彼らとの永久の別れは胸が引き裂かれる思いです。


さようなら、さようなら
後はもう、神に一切をお任せするだけです。


私には自分の望む自由はありませんから
おそらく宣誓司祭が連れてこられるでしょう。
でもここではっきり申し上げます。
その方とは一言も口をきかず、
全く知らない他人と接するようにふるまうつもりです。







※ マリー・アントワネットは娘がエリザベトと引き離されたと思ったため
手紙を書いても娘が(怒っていると思ったのか)受け取らないと思ったようです。


※ エリザベトに息子のことで謝っているのは
息子との近親相姦の嫌疑がアントワネットとエリザベトにかけられ
証人として息子ルイ・シャルルが強要された末、嘘の自白をしたことについてです。
(近親~はもちろん全くのでたらめ、でっちあげです)

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by pinkfleur | 2011-10-16 12:00 | アントワネット関連・人・事
2011年 03月 06日

ヴィジェ・ルブラン展

3月1日 「マリー・アントワネットの画家 ヴィジェ・ルブラン展」 を観に
東京三菱一号館美術館まで行ってきました。


そしてその後、日経東京本社ビルで行われた
「グザビエ・サルモン氏」の講演会にも行ってきました。


ロザリーの話しはしばらく中断します。




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ずーっと心待ちにしていた展覧会。もちろん講演会も。


私はマダム・ヴィジェ・ルブランと誕生日が同じです。(笑)
王妃のお気に入りだった画家と誕生日が同じ、というだけで単純にうれしい。


残念なことに私に画才は・・・ありません(笑)。
マダム・ヴィジェ・ルブランと共通しているのは
絵を描くことが好きということだけ。(笑)


子供の頃から絵筆を握ることが好きで何かしら描いていました。
もちろん外で遊ぶことも好きでしたが
絵を描くことに楽しみを感じていたお絵かき少女でした。


友達が遊びに来てもモクモクと画用紙に向かっている
(その頃から)マイペースな子供でした。
小学校の休み時間、お姫様(笑)の絵を描く私に
「○○ちゃん、私にも描いて」 とクラスメートの行列ができ
サインまで要求されました。(笑)


賞を貰うこともたまにありましたが
ただ絵を描くことが好きなだけだったので
賞を獲りたいとは一度も思ったことがありませんでした。


大人になってからは、パステル画を描いていた時期もありましたが
今ではすっかり遠ざかっています。
(パステルってその辺粉だらけになるんですよね)


もはや観るだけの私ですがそれでも年に数回
好きな画家や美術にふれるのは至福の時です。


今回のヴィジェ・ルブラン展には
普段アントワネットのプライベートアパルトマンに保管されている作品も来ています。
「ポリニャック夫人」 や 「マダム・エリザベート」 の肖像画も来ていました。



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マダム・エリザベート  ルイ16世の妹

最後まで兄一家と運命を共にします。
ルイ16世の刑死後、アントワネットがコンシェルジュリに移送され刑死。
兄夫婦の娘マリー・テレーズとタンプル塔に残されるも
1794年彼女もギロチンの刑に処せられます。

2008年秋 ヴェルサイユ訪問時撮影 



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ポリニャック公爵夫人  ご存知アントワネットの友人  

彼女もアントワネットが亡くなった同じ年の1793年
亡命先のウィーンにて王妃の後を追うように病気で亡くなります。

撮影同上



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ルイーズ・マリー・オルレアン公爵夫人

アントワネットの最初の親友ランバル公爵夫人は、オルレアン公爵夫人の兄嫁です。
オルレアン公爵はフィリップ・エガリテと呼ばれ王族の一員でありながら
ルイ16世の死刑賛成に一票を投じ、また彼自身も1793年断頭台の露と消えます。
王妃の処刑から間もなくのことでした。
やがて彼の息子ルイ・フィリップが即位しますが
彼の妃はアントワネットの姉ナポリ王妃のマリア・カロリーヌの娘です。
アントワネットの姪にあたります。

撮影同上





およそ3年前、王妃のアパルトマンで会った(観た) 「ひとたち」 に
再び会えたような、旧知の仲の友達に会えたような気がして
胸が一杯になりました。


「アルトワ伯」 と 「マダム・クロチルド」 の子供の頃の肖像画こちらは私は初めてでした。
思わず頬ずりしたくなるほど子供のかわいらしさが溢れた作品でした。
*二人ともルイ16世の弟と妹です。



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私は美術作品を細部までしっかり観ます。
肌の質感、目の色、レースの繊細さ、髪の光沢、
その他諸々一つとして取りこぼすことのないように息をひそめながら。


画家の前でポーズを取り、画家もまた線を引き絵具をキャンバスに置いていく...
なんて、作品が描かれた状況を想像しながら観ていると
画家・被写体両者の息吹を感じます。
写真とはまた違った温もりのようなものが伝わってきます。


そして少し離れたところからまた観ます。
近くては見えないものが必ずあります。


私は絵画展に行ってもそこに書いてある解説は読みません。
(作者名と年代をさっと見ることはありませすが)
作品だけをドンドン観て回ります。


絵を鑑賞するのに知識は要らない、というのが持論です。


俄か仕込みの知識なんてどうせ忘れます。 (私の場合)


大事なのは印象に残る作品にめぐり合えるか。
好きになった作品に出会えたか。
私は作品展に行く時はいつも
今回はどれだけ「好き」に出会えるかワクワクしながら向かいます。


「これいい。好き。嫌い」って感じることが私には大事。
そのためにもほぼ予習はして行きません。(笑)
気に入ったら図録を買って解説を読みます。


美術だけでなく音楽だってそう。


その曲が好きかどうか。


マリー・アントワネットはオペラ鑑賞の後、素直に拍手をしました。
それまでフランスでのオペラ鑑賞は拍手をしてはいけないマナーとなっていました。
以降、彼女に倣って皆拍手をするようになりました。


クラシックのこの曲が好き。だけど作曲家や演奏家を知らない、という人と
そんな素人をバカにするプロ、どちらが恥ずかしいでしょうね。


後者は芸術家気取りの単なる頭でっかち。
こういうスノッブな人達が芸術を高尚なものだと勘違いさせていると思います。


どんな人にも心の目や耳があります。
素人の心の目や耳を震わせてこそではないのでしょうか、芸術とは。


心で観るから心に残る。
心で聴くから心に響く。


ヴィジェ・ルブラン展はまだ始まったばかりです。


少なくともあと2回は行くつもりです。


とりとめのないことをつぶやき長くなってしまいました。
最後まで読んで下さってありがとうございました。




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by pinkfleur | 2011-03-06 20:49 | アントワネット関連・人・事
2011年 02月 24日

ロザリーの本名


ロザリーはコンシェルジュリで最後の日々を過ごしたアントワネットの世話係として
フランス革命の舞台に登場し、歴史にその名を残しました。
しかしその存在はほとんど知られていません。



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この絵はルドゥーテの薔薇です。
ロザリーに捧げるつもりで。



我々の知るロザリーの名前は " ロザリー ラモリエール " ですが



彼女の本名が実は マリー・ロザリー ドゥラモリエール " Marie-Rosalie Delamorlière "
だったということがわかりました。



フランスのマリー・アントワネットファンのホームページ 
" Le Boudoir de Marie-Antoinette " で知ることができました。



このホームページを教えて下さったくみさん、
くみさんのおかげです。本当にありがとうございます。
Merci beaucoup !



文盲であった彼女 (まだまだ識字率の低かった時代です) は
後年、王妃に仕えたコンシェルジュリのことを述懐しています。(ロザリー29歳の頃)
彼女の証言は1824年に出版された Lafont d'Aussonne 氏の伝記に
収められているようです。



日本ではなかなか目にすることが難しい貴重な資料が
本国フランスにはまだまだたくさんあるのだろうな~
とため息をついてしまいます。



以下 ≪ ≫ 内太字文章ホームページの記事より筆者要訳

≪ 革命下、ロザリーは自身の名前 " マリー・ロザリー ドゥラモリエール " の
ファーストネーム " マリー " がマリア様を想起させるということからマリーを隠し
名字のドゥラモリエールの " ドゥ " が貴族の名前に付くドゥ(de) と
同じ響きということから " 貴族出身 " と思われるのを避けるため
ドゥラモリエールからドゥを消してラモリエールとし
以降ロザリー・ラモリエールと名乗ります。 " Rosalie Lamorlière "

ブルトイユ生まれのマリー・ロザリー ドゥラモリエールは
初め、王党派のマダムボーリューの部屋付き女中として働いていました。
ルイ16世の処刑後、その死を悼みながらマダムボーリューも亡くなると
彼女の息子で同じく王党派であったムッシュ ボーリュー(以下ボーリュー氏)は
コンシェルジュリの看守であったマダムリシャールにロザリーを託します。

牢獄で受刑者の世話をする仕事が嫌だった彼女は
ボーリュー氏の革命裁判から不幸な人々を守るべく
無償で弁護をする姿を目の当たりにし
やがて無実の罪で投獄された多くの人々の為に
コンシェルジュリで働くことを受け入れます。

そうしてタンプル塔から移送されて来た王妃の
世話をすることとなったのでした。 ≫




ロザリーはセカンドネームだったのですね!驚きました!
本名を伏せていたんですね!



革命下のフランスの宗教事情を知れば
前述の記事でもマリア様のことに触れているように
彼女が名前を隠さざるを得ない状況だったことが理解できます。



フランスでは教会は国王の支配下にあったため
革命において教会の国有化、聖職者の公務員化を図り
反バチカン政策をとりました。



この時 「聖職者民事基本法」 なる憲法に
宣誓を拒否した司祭 (反革命派) のことを
我々もよく耳にする 「宣誓拒否司祭」 と呼んでいたのです。



アントワネットも遺書に
「私はローマ・カトリック教徒として死に臨みます。宣誓司祭の秘跡は受けません。」
とハッキリと遺しています。



前回の記事でハミルトンの絵画を扱いましたが
そこにアントワネットの傍らに聖書を持って佇む司祭が描かれています。
アントワネットは自身の誓いどおり宣誓司祭から顔を背け
新政府が作った宗教などカトリックとは認めないという意思表示をしています。
最後のせめてもの抵抗だったのでしょう。



ノートルダムでは聖母マリア像にとって代わって自由の女神像が据えられました。



こういうことからファーストネームであるマリーを隠したのですね。
きっと彼女だけではなかったことなのでしょう。



それにしてもロザリーって
とても詩的で美しい名前だと思いませんか?
語源はやはりローズ(薔薇)のようです。




余談ですがアメリカの私のホストファミリーの
おばあさんの名前がローズでした。
ローズやロザリーは最近あまり聞かないので
今では古風な名前なのでしょうね。
ロザリーはローズほどではなさそうだけど。(笑)



そういえば映画タイタニックでケイト・ウィンスレットが
演じたのもローズという名前。
映画の中でローズは婚約者からナナ (Nana) と呼ばれていました。
前述の私のおばあさんもニックネームはナナでしたので
どうやらローズのニックネームはナナのようです。



ところで私はディカプリオより婚約者役のビリー・ゼーンの方が好きで
彼観たさに映画館に3度も足を運んだおめでたい人間です。(笑)





ポエティックな名前の彼女を想像しながら寝ます。
ロザリーが夢に出てきそうな気がします。
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by pinkfleur | 2011-02-24 00:01 | アントワネット関連・人・事
2011年 02月 06日

王妃の髪を切ったのは

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Marie-Antoinette conduite à son exécution le 16 octobre 1793 
刑場へ運ばれるマリー・アントワネット

William Hamilton作 1794年 Vizille, musée de la Révolution française収蔵

 

この作品はイギリス人画家ウィリアム・ハミルトンによって描かれました。
2008年パリ・グランパレで開かれたマリーアントワネット展の図録によると
処刑直後の新聞記事に基づき製作されたとあります。
画家本人のサインが図版左下に認められ、1794年と記されているそうです。
王妃の処刑から完成まで数ヶ月 (はかかりますね) 費やされています。


画家の死後肖像画は売却され転々とした後1993年7月14日
ロンドン・サザビーズオークションでフランス・リヨンの画廊Michel Descours が購入。


現在はフランス南東部の街ヴィジーユVizille (Isèreイゼール県Grenobleグルノーブルから16km)
にあるフランス革命美術館 (Le Musée de la Révolution française) に保管されています。



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                   *地図はVizille市HPより拝借しました。



パリからグルノーブルまでTGV でおよそ3時間、Vizille までは3時間ちょいということになります。
こんな所にもアントワネットの肖像画があるんですねぇ... きっとまだまだ他にもあるのでしょうね...


美術館のHPアドレスを貼りたかったのですが、安全ではないとかかんとかで無理でした。
興味のある方は domaine-vizille.fr/391-les-collections.htm と入力してみて下さい。
その後 LES COLLECTIONS - Domaine de Vizille をクリックすると
この美術館の収蔵作品 (一部ですが) が見れます。
(上記の神々しいアントワネットは出て来ませんが)


ロベスピエールの胸像 (初めて見るロベスピエールでした) や第三身分とは...で
有名なシエイエスの剣などちょっと珍しいものを見ることができました。


本題 「王妃の髪を切ったのは」 に入ります。


前述のマリー・アントワネット展の図録に、上記の肖像画と共に載っていた一文に
目が止まりました。




" Rosalie lui coupa les cheveux pour que
le bourreau n'eût pas à le faire."

ロザリーが彼女(王妃)の髪を切ったので、死刑執行人は切る必要がなくなった。 


とあるではありませんか!




えっ?



ええっ!?



アントワネットの髪を切ったのは ロ、ロ、ロ、ロ、ロザリー だったの!!??



私はこれを読んで驚きました。
今の今まで死刑執行人サンソンがアントワネットの髪を切っていたと思っていました。


ロザリーにとって王妃への最後の奉公が、いつも自分が結っていた髪を切ることになるなんて
彼女の心中はいかばかりだったかと考えてしまいます。



だけど私は

アントワネット自身がロザリーに頼んだのではないか

と思っています。



死刑執行人や宣誓司祭を目にしても動じなかったアントワネットの心も
鋏を見た瞬間、現実に引き戻された感じがしたのではないでしょうか。


ロザリーには酷だけれど、彼女に切ってもらって死に支度を完成させたかったように思います。


髪に鋏を入れるロザリーと、ただじっと髪を切られているアントワネットの二人を想像すると
本当に悲しくなります。




刑場に向かうアントワネットの黒いドレス姿を描いた作品もありますが
実際には黒い喪服 (夫ルイ16世の喪に服していることが国民の反感を買う為)は
着替えさせられ、白いドレス姿で刑場へ向かいました。


ハミルトン氏の描いた白いドレスの王妃は彼の技量によるところですが
コントラストの大変美しい一枚に仕上がっています。


ロザリーが切ったと知ってから、この作品を見るにつけ
王妃の短くなった髪がより一層、痛々しく感じられてなりません。







参考図録 MARIE-ANTOINETTE  La Réunion des musées nationaux 刊
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by pinkfleur | 2011-02-06 23:36 | アントワネット関連・人・事
2010年 12月 04日

嵐の前の静けさ


昨日は洗濯機で家が丸ごと洗濯されているかのような激しい雨でした。
ザブンザブンと窓を打ちつける雨はまるで嵐みたいと、眠気も吹っ飛んだ私でした。


フランス革命という嵐が吹き荒れる、革命勃発直前に
アントワネットを描いた小肖像画 (細密画) があります。


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" Marie-Antoinette et ses enfants au pied d'un arbre "

作者 フランソワ・デュモン

Musée du Louvre, département des Arts graphiques
ルーブル美術館 版画・素描閲覧室蔵  小肖像画 (細密画) 縦19.5cm 横14.3cm 材質:象牙

肖像画来歴 : David-Weill 氏の遺品 1937年ルーブル美術館入り




まさに嵐の前の静けさを表している作品です。
穏やかに微笑むアントワネット、愛しい子供たちと共に描かれています。


子供たちは長女マリー・テレーズ(マダム・ロワイヤル)と
次男の王太子ノルマンディー公ルイ・シャルル




私も大好きな作品のひとつです。




2008年パリ・グランパレで開かれたマリー・アントワネット展のカタログ
グザヴィエ・サルモン氏の解説によると


現在ルーブル美術館に保管されているこの小肖像画は
1789年、第一王太子ルイ・ジョゼフが亡くなった直後に描かれたもので
長男の死により、つらい思いをしていたにも拘わらず
王妃は子供たちと共にモデルを努めます。


母に甘えて抱きつく王太子
手をつなぐ母娘


作品は家庭的な温かさを打ち出し、母性の美徳を表していて
一種のマニフェスト的な役目を果たしている、とあります。


また作者フランソワ・デュモンの会計報告書には、この作品により
≪1790年1月29日200ルイの報酬を得た≫
との記載が認められるとのこと。




長男のルイ・ジョゼフが亡くなったのは1789年6月、三部会の最中
服装からも初夏とうかがえ、ひたひたと迫り来る革命 (7月) 直前の
最期の幸せ (すでに幸せではなかったとは思いますがこの先不幸になる一途だったことを
考えると) なひと時を切り取った貴重な一枚だと思います。


それにしてもアントワネットの優しいまなざし、なんて穏やかな表情でしょう!
なるほど確かに少し寂し気な感じはしますが
子供たちと一緒にいるアントワネットは本当に幸せそうです。


見ているこちらまでもが温かく優しい気持ちになります。


私はグランパレのアントワネット展に行ったとき
陳列ケースに入っていたこのわずか縦20cm 横15cm ほどの小さな細密画が
照明のせいもあるのでしょうが、光輝いていて
アントワネットが本当に幸せそうで
いつまでも見ていたくて、その場から離れ難かったほどでした。


彼女の肖像画の中でもここまで
後ろ髪をひかれた作品は初めてでした。




画像からはわかりづらいのですが
王女が木の幹に文字を彫っています。


≪ Soyez à tous leur mère. ≫

すべての(フランス人の)母であれ


国母であることを強調し、イメージの一新を図りたかった一文は
今となっては本当に虚しい限りです。
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by pinkfleur | 2010-12-04 23:51 | アントワネット関連・人・事
2010年 11月 02日

マリー・アントワネットの誕生日 


今日はマリー・アントワネットの誕生日です。

- Le deux-cent-cinquante-cinquième anniversaire de la naissance de Marie-Antoinette -
生誕255周年です。


今から255年前の今日、11月2日午後7時30分
父フランツⅠ世と母マリア・テレジアの15番目の子供として
ここ、オーストリア・ウィーンのホーフブルク (Hofburg = ドイツ語で王宮) にて誕生しました。



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生まれた日の翌日、マリア・アントニア・ヨセファ・ヨハンナ (ドイツ語読み) と名付けられました。


マリア・テレジアの娘たちは聖母マリアにあやかり、ファーストネームは全員マリアです。


ちなみにフランス語読みだと、マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ です。 (周知のとおり)


マリア・テレジアとフランツⅠ世の間には16人の子供 (男子5人、女子11人) が生まれました。
うち、成人したのは男子4人、女子5人。


「子だくさん一家 (貧乏定説・ヤンキー多し) 」 番組なんぞを見ると
一日洗濯機は3回はまわす、お米は何キロ(?)炊くなど (どーでもいい)
そして食事中の風景はとても微笑ましいとはいえないような光景が
目に飛び込んできて、ゲンナリしていまいます。


比べるのもなんですが、天下のハプスブルク家
基本的に 「寝食」 そして洗濯(笑)の心配など皆無なわけですから (いいね)


「幸せなオーストリアよ。戦争は他国に任せ、汝は結婚せよ」


の言葉通り結婚政策により領土拡大を実現させていったハプスブルク家。
しかし、マリア・テレジアの両親が嫡男に恵まれなかったこともあり
二人は子作りに励んだというわけです。



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アントワネットが誕生した当時、彼女の兄姉たちには

マリア・アンナ (アントワネットより17歳上)
ヨーゼフⅡ世 (14歳上)
マリア・クリスティーネ (13歳上)
マリア・エリーザベト (12歳上)
カール・ヨーゼフ (10歳上、アントワネットが6歳のときに死亡
マリア・アマーリア (9歳上)
レオポルトⅡ世 (8歳上)
マリア・ヨハンナ・ガブリエーレ (5歳上、アントワネットが7歳のときに死亡
マリア・ヨーゼファ (4歳上、アントワネット12歳のときに死亡
マリア・カロリーネ (3歳上)
フェルディナント (1歳上)

がいましたが、彼女が生まれた1年後には弟マクシミリアンが誕生しています。



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アントワネットが最も親しかったといわれる3歳上のマリア・カロリーネ、
彼女はナポリに嫁ぎ、ナポリ・シチリア王妃になるわけですが
そもそもカロリーネはルイ16世のお妃候補と考えられていたようです。


ナポリ王妃候補には、8女のガブリエーレが予定されていました。
がしかし病気で亡くなり、9女のヨーゼファがその代わりとなるところでしたが
彼女も早折したためカロリーネに回ってきた、ということです。


そうしてアントワネットはルイ16世妃となったのでした。



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アントワネットは、子供の頃 「アントーニア」 または 「トワネッテ」
はたまたフランス語風に 「トワネット」 と呼ばれていたようです。



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「トワネット」 時代、彼女は年齢の近かった兄弟たちと
ホーフブルクやシェーンブルンで過ごしました。



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アントワネットも間違いなくここに立ったであろう、そして眺めたであろうという景色を前にするといつもいいようのない思いに捕われる私です。



そしてルイ16世との結婚が決まると
アントワネットのフランス語上達のため、宮廷内は母国語であるドイツ語は禁止となり
彼女はフランス語読みで 「アントワネット」 と呼ばれるようになりました。



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ここも走り回ったのかな??



アントニアからアントワネットとなり
14歳半でフランスへ嫁いだ彼女は
オーストリアで過ごした幸せな幼少時代を忘れることなく
プチ・トリアノンの庭園は彼女にとって
思い出深い景観に仕上がっています。


亡くなったお姉さんたちが生きていたら
アントワネットの人生は違ったものになったのだろうなあ
そうすると私はここまでアントワネットを好きになることは
なかったかもしれないな、とついつい考えてしまいます。



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写真はすべて2008年5月のオーストリア旅行時のもの ♡



アントワネットはここで生まれ、ここからフランスへ旅立ったんだなぁと
撮った写真を眺めながらしみじみした彼女の誕生日でした。








参考文献  「ロココの花嫁 マリー・アントワネット ベルサイユへの旅路」
         ケーラー・鹿子木美恵子著  叢文社


        「Trianon : le domaine privé de MARIE-ANTOINETTE(仏語)」  
        Christian Duvernois 著 François Halard 写真  ACTES SUD 社

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by pinkfleur | 2010-11-02 19:30 | アントワネット関連・人・事
2010年 10月 16日

マリー・アントワネットの命日  - L'anniversaire de la mort de Marie-Antoinette -


1793年の今日10月16日、マリー・アントワネットがコンコルド広場にて処刑されました。



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処刑場である革命広場(現コンコルド広場)に向かうアントワネット  生涯最後となった肖像画

ナポレオンの戴冠式などで知られる画家 「ジャック・ルイ・ダヴィッド」 によるアントワネットのスケッチ
ルーブル美術館蔵 (版画・素描閲覧室 ロッチルド (ロスチャイルド)コレクション) *見学要予約



2008年パリ・グランパレでのマリー・アントワネット展で観ましたが
想像していたよりもずっと小さく、本当に紙切れに描かれたもの、といった感じでした。



午前11時、アントワネットを乗せた荷馬車 (家畜運搬車、ルイ16世の時は馬車だった) は
コンシェルジュリを出発、一路革命広場へ



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彼女を運んだサン・トノレ通り (rue Saint-Honoré)



パリに来てこの辺りを歩くたびにアントワネットが通った、しかも荷台で・・・
ということがついつい頭をかすめる私です。(苦笑)



詰めかけた群衆からの罵声や野次にひるむこともなく堂々としていたというのは
背筋を真っ直ぐにしたダヴィッドのスケッチからも真実であったことが伺えます。



サン・トノレ通りにあるサン・ロッシュ教会 (église Saint-Roch) には
ヴェルサイユの庭園を設計した 「ル・ノートル」 が眠っています。



宮殿の王妃の部屋からも望めた庭園、彼女が散歩した庭園、その庭園の設計者が眠る教会の前を
ブルボン家最後 (ヴェルサイユ最後) の王妃となった彼女が死路へと通ることになるなど
誰が想像したでしょう。



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彼女だけではなくここを大勢の処刑人たちが通り、見物人たちが沿道を埋め尽くしていた、
そんな悲しい歴史が刻まれているとは、観光客でにぎわう現在からは想像もできません。



ダヴィッドがスケッチしたのはどこなんだろう、とツヴァイクのマリー・アントワネットを
読み返していたら 「カフェ・ド・ラ・レジャンス」 の名が・・・



パソコンでいろいろ検索していくうちに発見。
Café de la Régence カフェ・ド・ラ・レジャンス
wiki fr. によると、1681年から1910年まで飲食店として機能していたとのこと。
わ~すごいなー・・・ 17世紀後半から20世紀前半・・・
現在ではモロッコ政府観光局になっていました。 びっくり~!



さらに住所を調べてみると、ハッ!この辺りはしょちゅう来ていた所だと判明!



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花まる印が、Café de la Régence のあった建物です。
ストリートビューで見ると MAROC(モロッコ)の文字が確認できます。
左隣はハーゲンダッツ、さらにその左は Café Ruc (ここにも何度か足を運んだな... )



知らず知らずにこの建物をバックに写真を撮っていました・・・。
昨年の夏、旅行した時の写真です。 ちなみにルーブルも後ろに写っています。
サン・トノレの写真も同時期の写真。
確か7月14日で、ことごとくお店がお休み。
トホホな気分でサン・トノレを歩いたのでした。 



ああ、ここだったなんて、この建物の窓からダヴィッドがスケッチしたんですね。
最後のアントワネットを。




アントワネットを乗せた馬車はゆっくりサン・トノレ通りを進み
ロワイヤル通り (rue Royal) に出てきます。

*ロワイヤル通りを挟んだ向かい側からフォーブル・サントノレ通り (rue Faubourg Saint Honoré) となります。
Faubourg とは市外という意味でその名の示す通り、当時のパリは
ロワイヤル通りを境に向こう側 (フォーブル・サントノレ) が市外でした。

フォーブル・サントノレはハイブランドのショップストリートで
さらに先を進むと大統領官邸 「エリゼ宮」 が左手に見えてきます。



そしてロワイヤル通りを左折、ここから革命広場へは一直線。
12時15分マリー・アントワネットはギロチンの露と消えました。
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by pinkfleur | 2010-10-16 12:30 | アントワネット関連・人・事
2010年 09月 01日

マリー・アントワネットの身長

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                                             (加工は私)



マリー・アントワネットの身長が判明した、ということだそうです。
なんでも彼女は 1m54cm だったとか。


早く UP したかったけど、 身長計測に参考にしたアントワネットの肖像画というのが
私も写真で持っているのと同じもので、せっかくなので一緒に UP したかったのです。(へへ。)


2010年8月18日付けの読売新聞朝刊の記事をざっくり説明すると


歴史研究家・矢崎勝巳さんという方がアントワネットの肖像画の眼裂幅と手にしていた本の
サイズを計測、上腕骨の長さを割り出し「ピアソン式」にあてはめたところ 1m54cm という
身長になったとのこと。当時の平均より 2cm 高かったそうです。


詳しくはこちら → YOMIURI ONLINE


154cm ということは、私より 8cm 低いんだ。


昔の人(って大雑把!)って小柄だった、とつくづく思ったのは
ずい分前、明治神宮宝物殿で明治天皇皇后の昭憲皇太后の衣裳(着物など)を観た時。
は~、なんて小さい着物なの~!とびっくりしてしまった。 


私は昔の人の衣裳など、着物もドレスも観るのが大好き。


同じ女性として、女性の先輩方はどんな着物やドレスを着ていたのか
とても気になるところなのです。



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                  2008年10月撮影



研究に使われた肖像画。 
最近もこの肖像画を王妃の図書室紹介記事で UP したばかりで、縁があるのかな、うれしいなー。


ちなみにこちらは、王妃のプライベートアパルトマン内に他の肖像画と共に飾られています。


日本に来てほしいな。
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by pinkfleur | 2010-09-01 23:41 | アントワネット関連・人・事
2010年 06月 10日

ミタウ宮殿



1799年の今日6月10日
革命後唯一生き延びたマリー・アントワネットとルイ16世の忘れ形見、マリー・テレーズが
従兄のアングレーム公と、クールラント(現ラトヴィア共和国)のミタウにて結婚式を挙げました。


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結婚式を挙げたミタウ宮殿   亡命中のブルボン王家一家は1798年から1780年までここで暮らしました。
(現在はラトヴィア農業大学が使用)



1799年5月、マリー・テレーズは従兄ルイ・アントワーヌ・アングレームとの結婚のため
ウィーンを発ち、ミタウに向かいました。


従兄アングレーム公とは、ルイ16世の末弟アルトワ伯の長男です。


ロシア皇帝パーヴェル1世の厚意により、ルイ16世の弟たち一家はミタウ宮殿で
暮らしていました。


ミタウの地で彼女を待っていたのは懐かしいブルボン家の人々、亡命中の貴族たち。
彼等と涙の再会を果たします。


叔父のルイ18世(プロヴァンス伯)とはヴァレンヌへの逃亡時チュイルリー宮殿で
別れてから8年ぶり。
アルトワ伯(後のシャルル10世)や婚約者で従兄のアングレーム公とは
革命勃発時以来10年ぶりの再会となりました。


そして最も彼女との対面を願い続け、この日を待ち焦がれていた人はおそらく、
ルイ16世の最期の証人エッジウォルト神父だったのでは、と思います。


ルイ16世の聴聞司祭となったエッジウォルト神父は、タンプル塔から処刑場まで
ルイ16世に付き添い、断頭台の下で彼の最期を見届けました。


エッジウォルト神父はマリー・テレーズを前に涙にくれ、言葉になりませんでした。
父王の最期を聴いたマリー・テレーズはどういう気持ちだったのでしょう。
新たな悲しみと同時に憎しみも増幅したかもしれません。
けれども安堵の気持ちも生まれたのでは・・・と思います。
それは、もうこれ以上悲しい事実を聞かされることはないからです。


タンプル塔で過ごしたルイ16世一家のうち、マリー・テレーズだけが
生き残ることができたのです。


恐怖政治が終わったあと、彼女を待っていたのは母、叔母エリザベト、弟の死でした。
それぞれの最期を知り、あとは父王の死を間近で見たエッジウォルト神父から
話を聴くだけでした。



エッジウォルト神父はマリー・テレーズの結婚式の介添えを努めました。
新郎新婦はもちろん、この場にいたすべての人が感無量だったことでしょう。


結婚式当日パーヴェル1世から贈られたダイヤモンドの首飾りを着けた
マリー・テレーズは美しかったに違いありません。



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マリー・テレーズ17歳頃  Heinrich Friedrich Füger 作  1795年 


父、母、弟が装飾されたカメオを身に付けています。
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by pinkfleur | 2010-06-10 23:46 | アントワネット関連・人・事
2010年 05月 23日

La cocarde tricolore ~三色帽章~


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「三色帽章」を着けたフランス国王ルイ16世 (黒い帽子の右、赤く丸いコサージュみたいなもの)



写真はルイ16世一家が逃亡の末逮捕された街、ヴァレンヌにあるアルゴンヌ美術館を訪れた時のもの。
(2008年4月)



1789年7月17日バスチーユ陥落から3日後、パリ市庁に来たルイ16世は、パリ市長バイイ(バイイも断頭台の露となる)からこの三色帽章を受け取りました。



三色帽章とは革命のシンボル、今のブローチのようなもので赤白青の三色から成っており、これが今日のフランス国旗の由来となっています。



この三色帽章の発案者は国民衛兵軍の指令官ラファイエットか、はたまた前出の市長バイイかそれぞれが主張していたようで、現在でも特定に至っていません。(どっちでもいいです。)



帽章そのものは革命期に突如として表れたものではなく、ルイ15世16世の時代、上流社会や軍人の間で、自分の所属するグループ(思想などを表明する)のアクセサリー的なものとして存在していました。



それが革命勃発と同時に赤白青の三色帽章が作られ革命の証として大流行し、さらにはこの三色帽章の着用が義務付けされ、着けていないと投獄、おそらくはギロチン行きの刑が科せられたようです。



三色の赤と青はパリの色、白は国王の色を表しています。



この国王の白色の由来は、メロヴィング朝のクロヴィス1世が天使から百合の花を与えられたという伝説からのようです。



以降白はブルボン王朝が没するまで国王、王家の色となります。



しかし12世紀末になって初めて登場する「フランス国王の紋章」は、青地に金色の百合の花があしらわれています。 紋章用語としての青(仏語)は、bleu ではなく azur となります。
青を紋章に初めて使ったのはフランス国王で、その青を使用するきっかけとなったのがサン・ドニ修道院院長のシュジェール(1081-1151)の存在が大きく影響しています。



12世紀半ば、シュジェールは美しい宝石サファイアの青を神聖な光と捉え、それまで教会で使用されていなかった青色を修道院建設時ステンドグラスに用い、青を世間に認知させていきます(反対派もいたようですが)。
サン・ドニの青と言われ、それが西に進んでシャルトルの青、ルマンの青と拡がっていきました。



シュジェールが結果、聖母マリアにイメージ付けした「青」を、フランス国王はカペー王朝(ブルボン家の祖)の守護者である聖母マリアを称え、紋章に取り入れたのでした。



シュジェールをもって、初めて王家と青色、が結びついたのでした。それまでに王家と青色に縁はありません。



さらにそれまで青はくすんだ色で職人や農民の作業着の色だったようですが、染色技術の進歩で明るい青を表現することが可能となり、13世紀初頭、ルイ9世が聖母マリアを真似て青い服を着始めます。
青を着た最初の君主です。そしてあっという間に衣装に青、は王侯貴族の間でブレイクします。



以降、王族(フランス)の衣装には、青地にこれまた紋章に組み込まれている百合の花が織り込まれることになったのでしょうね。



話は飛んで(戻って)三色帽章から発展した三色旗は、1814年~1830年の王政復古時(ルイ18世・シャルル10世いずれもルイ16世の弟)には一時廃止され、国王ひいては王家の色の白地に百合の花をあしらった旗が登場していました。



この時代はすっかり反革命派色となってしまっていたのですね。・・・ボソ。
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by pinkfleur | 2010-05-23 18:45 | アントワネット関連・人・事