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ヴェルサイユの花 ~Fleur de Versailles~                         

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2010年 06月 05日

ドラクロワ -革命を描いた画家-


4月生まれの画家のひとり、フェルディナン・ヴィクトワール・ウジェーヌ・ドラクロワ

Ferdinand Victor Eugène Delacroix  1798年4月26日 - 1863年8月13日



ドラクロワは4月生まれ。私が4月生まれなので、4月に生まれた画家を取り上げています。



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墓地の孤児(少女) Jeune orpheline au cimetiére   1824年  ルーブル美術館蔵



「墓地の中で習作のためにポーズをとってくれた乞食女に7フラン」
1824年2月17日 ドラクロワの日記より


ドラクロワが墓地にいた少女をモデルに描いたそうです。 
次に掲げる「キオス島の虐殺」の画面左端、無表情の男性にすがりついている少女の顔に利用しています。


「ドラクロワ」というと、フランス7月革命の絵が最も有名かもしれませんが、私はこの烈しい目をした少女の絵が1、2と順位をつけ難い位好きです。



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キオス島の虐殺
Scènes des massacres de Scio   1823~24年頃  ルーブル美術館蔵



左端の少女がそうです。


1821年オスマン帝国(トルコ)の圧政からの解放を訴えギリシャ国内で暴動が起こり、それらを鎮圧するためオスマン・トルコ軍による大虐殺が行われました。


この作品は1822年4月オスマン・トルコ軍によるギリシャ・キオス島住民虐殺を描いたもので、あまりの生々しさに物議をかもした作品。 虚空を見つめる老いた女性が印象的です。




ロマン派を代表する画家ドラクロワは、1798年4月26日、パリに近いシャラントン・サン・モーリスで生まれました。


父は、ナポレオンの時代の大使シャルル・ドラクロワ(タレーランが父親という説もあります)
母の名はヴィクトワール、ルイ16世御用達宮廷家具製造家の娘でした。
ドラクロワには、19歳年上の長兄、18歳上の姉、そして14歳上の次兄がいました。年齢の開きからもタレーラン説と結びつけてしまいそうです。


1817年ドラクロワ19歳の時、新古典主義のゲランに弟子入りし、そこでロマン派の先駆け、ジェリコーと出会います。 写実性や安定した構図を求められた新古典主義がまだまだ主流だった時代、人の内面を感情的に描くロマン派は認められていませんでした。


そして新古典主義からロマン主義への移行期の途中、ジェリコーが若くして亡くなってしまいます。


ドラクロワは孤立無援状態になったものの、内面の動きを描き続け(時には荒々しいまでに)かつ写実性に欠くことなく色彩を豊かに表現し、ロマン派の礎を築き、発展させ世間に認めらるようになりました。


そしてその鮮やかな色彩表現力は、後の印象派画家たちに大きく影響を与えます。



ドラクロワ -革命を描いた画家-_e0190118_17584718.jpg


1830年の7月革命を描いたドラクロワの代表作 

民衆を率いる自由の女神 1830年7月28日
La Liberté guidant le peuple – Le 28 juillet 1830
  1830年  ルーブル美術館蔵



自ら生き証人として7月革命を描いたこの作品は、彼の代表作となりました。


ドラクロワは自由の女神の左側、シルクハットを被って登場しています。
自由の女神の右側、ピストルを持った少年は、ユゴー「ラ・ミゼラブル」に出てくる浮浪児ガブロッシュ。


7月革命・・・
1789年に勃発したフランス大革命、その後のナポレオンによる支配・失脚を経て、1814年からナポレオンの百日天下を挟むものの、1830年の7月革命まで王位に就いたルイ16世の生き残っていた弟たち プロヴァンス伯とアルトワ伯。


ブルボン家の頭上に再び王冠を取り戻した、というよりはナポレオン失脚後、連合諸国によって「あいつでいいんじゃない?」的に選ばれ、玉座に座ることができたラッキー感は否めません。


ルイ16世の処刑に少なからず「罪悪感」を抱いていたフランス国民たちは、亡命し諸国をさすらい続けていたブルボン家の生き残り一家を喜んで迎え入れます。


しかしルイ18世となったプロヴァンス伯は比較的穏健な政策をとりつつも、ナポレオン百日天下後の、ナポレオン一派の粛清と、そしてルイ18世の死去後、シャルル10世となったアルトワ伯のアンシャン・レジーム、いやルイ14世時代的の絶対王政的な政策で国民の不満がまたまたドカーンと爆発、7月革命が起こり退位を余儀なくされました。
(弟さんたちよ、ルイ16世の死から学習して下さい・・・)



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ディエップの高みから見た海 
La mer vue des hauteurs de Dieppe  1852年  ルーブル美術館蔵



イギリス海峡を望むノルマンディー、ディエップの海
19世紀中頃まで海は恐ろしいものと思われていましたが、それが一転ブルジョワジーのリゾート地となりました。


ドラクロワの作品中、私の中では、トップに掲げた少女の絵と1、2を争う作品。(笑)
夕陽に染まる雲間に覗く青い空と、金色に光輝く海。ああ、いつまでも眺めていたい風景です!!


激動の混沌とした時代のフランスに生き、自身を絵画の世界の革命家とみなし、旧体制とは永遠におさらば、新しい道を突き進むぞといった7月革命を描いた彼だからこそ、後年、見るものを穏やかな気持ちにいざなうこの一枚を描けたのかもしれないなぁ、なんて思います。


その後も様々な絵を描き続けたロマン派の代表選手ドラクロワは、1863年パリで亡くなり、ペール・ラシェーヌ墓地で永遠の眠りについています。



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ウジェーヌ・ドラクロワの肖像
Portrait d’Eugène Delacroix
  1837年  ルーブル美術館蔵

by pinkfleur | 2010-06-05 20:32


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