2010年 01月 21日
ルイ16世は、1793年1月21日 革命広場、現在のコンコルド広場にて処刑されました。 1754年8月23日生 - 1793年1月21日没 享年38歳 1754年8月23日午前6時頃、彼はこの部屋、ヴェルサイユ宮殿・王太子妃の寝室にて生まれました。(残念ながら当時を偲ぶ家具類ではありません 2008年秋撮影) ルイ・フェルディナン王太子と、その妃マリー・ジョゼフ・ド・サックスの「三男」として誕生。 ルイ・フェルディナンは、ルイ15世とその妃マリー・レクザンスカの長男です。 父ルイ・フェルディナンと母マリー・ジョゼフ・ド・サックスには、すでに長女マリー・ゼフィリーヌ、長男ブルゴーニュ公、次男アキテーヌ公がいました。 けれど、母マリー・ジョゼフがルイ16世を妊娠中、次男アキテーヌ公(生後7ヶ月)が亡くなってしまいます。 そして、ルイ16世が6歳半の時、長男ブルゴーニュ公(9歳半)が亡くなり、11歳の時、父(33歳)までもがこの世を去ってしまう。 (姉マリー・ゼフィリーヌも5歳で夭折。ルイ16世が1歳前後) 本来、遠かったはずの「王位継承者」という地位に立たされ、過酷な人生ををたどることになってしまいます。 数学や物理が得意、科学にも深い興味を持ち、地理や歴史に明るく、さらにラテン語・英語・イタリア語・スペイン語が堪能で、非常に勉強熱心でした。 外国の新聞にも目を通し、ヨーロッパ各国の政情に精通していました。 身長178cm と、当時の人としては長身で、がっちりした体格、かなり大柄な人だったようです。 ルイ14世や15世の派手さを好む血は彼には流れず、父ルイ・フェルディナンに似て、地味で真面目、几帳面で、信仰心の篤い人でした。 理路整然としていて、しっかりとした意見を持っていたにも拘わらず、寡黙で優柔不断だった為、長所が理解されにくい人でした。 また、大変きれい好きで、狩猟の後、2槽の浴槽を用意し、1槽で石鹸を泡立てて体を洗い、もう1槽のきれいなお湯で体をゆすぐという、当時としては珍しいお風呂の入り方をしていた人です。 彼の治世は、長年の戦争と悪政により、すでに国家は財政難、またヨーロッパは凶作続きで、困難の多い時代でした。 政治の改革を懸命に進めていましたが、アメリカ独立戦争を支援(これが最大の原因だと思う)し、財政の立て直しに失敗(王妃が口出ししているかのごとく誤解されていますが、ルイ16世は日頃、王妃の政治関与を頑なに拒み、優柔不断だったにせよ、自己の意思で判断決定していることがほとんどです) 革命を許さず、結局亡命に失敗、自らアドバイスしたギロチンの刃(三日月型ではなく、斜めまっすぐに、という)によって、命を落とすことになりました。 そして死刑の際、彼の望んだ「フランス国民の幸せ」はおろか、その後一番守りたかったはずの、彼の家族のほとんどが、悲劇の最期を遂げることになります。 統率力に欠け、激動の時代の一国の君主には向かない人だったのでしょうが、子煩悩で、優しく、誠実だったルイ16世。 断頭台で、従容として死に臨み、革命派も認めざるを得なかった立派な最期は、これからも語り継がれてゆくべきだと、私は思います。 ルイ16世、マリー・アントワネット、王家のお墓のある「サン・ドニ大聖堂」 (2008年秋撮影) 今日一日は、彼を思って、手を合わせました。 実際ルイ16世が使用していた、趣味の錠前作りの為の・・・機械です。 (2008年秋撮影) ああ・・・ピンボケ・・・。(泣) ・・・ちなみに、ルイ16世は乙女座でした。
by pinkfleur
| 2010-01-21 23:57
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