2012年 05月 30日

メルク

トリップアドバイザーさんからご連絡をいただき
当ブログがお薦めブログに認定されました。
トリップアドバイザー、メルク(オーストリア)の街紹介ページに
当ブログがリンクされています。


メルクはアントワネットがウィーンを発って、初めて一夜を過ごした地です。
母マリア・テレジアや家族と離れ(兄ヨーゼフだけ一緒でしたが)
どれだけ心細かったことでしょう。
それだけに私の思い入れも強いメルクです。


トリップアドバイザーさんのおかげでメルクを思い出しました。
しばらくメルクの記事をトップに掲げます。



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オーストリア、メルクの修道院 2008年5月に訪れました。



1770年4月21日、アントワネットはウィーン・ホーフブルグ宮(王宮)を発ち
23泊24日かけ、未来の夫の待つフランス・コンピエーニュを目指します。



ウィーンを離れた最初の夜を、ここメルクの修道院で過ごしました。



先回りしていた長兄・ヨーゼフⅡ世が出迎えてくれました。(よかったね、お兄さんがいてくれて)



どんな所で、1泊したのだろうと、その理由のみでここまでやって来ました。

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昨年発売された記念切手です。 メルクの修道院が切手になっていますね。 

切手シートの下の方をよく見ると、発行日が "10月16日" です。 奇しくもアントワネットの命日です。(偶然) (ハッキリ見えないですね・・・すみません)

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メルク駅から修道院へは約15分程です。 ラートハウス広場から細い坂道を上がります。

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この日の夜、アントワネットのために、ドイツ語のオペラ「レベッカ、イザークの花嫁」が上演されたそうです。



これはマリア・テレジアが各宿泊地のホストに、娘が退屈しないよう演劇などを上演するよう指示を出しています。



全て僧達が演じ、他にもプロのテノール歌手やソリスト達も男性だったとのこと、宝塚歌劇団の逆パターンです。(笑)
アントワネットはヴェルサイユへの旅の最初の夜に、「オール男性のオペラ」!の歓迎を受けます。

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ハプスブルグ家の紋章「双頭の鷲」



またここメルクの修道院は、オーストリア継承戦争と深く関わりのあった場所です。



簡単に説明するとこうです。(といっても少し長いです)



1711年4月オーストリア皇帝ヨーゼフ1世が亡くなった時、嫡男がおらず弟のカール6世、マリア・テレジアの父が後継者となりました。



マリア・テレジアの父、カール6世と母エリザベートには男子がいなかったのですが、何とか娘マリア・テレジアを後継者と決めることができました。
しかしカール6世の亡くなった兄、ヨーゼフ1世の娘と娘婿たちが、「それはおかしい」と文句を言い出したのです。



(ちなみに亡きヨーゼフ1世の二人の娘婿たちは、ザクセン選帝候・ポーランド王フリードリッヒ・アウグストと、バイエルン選帝候カール・アルブレヒトです。)

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そして話し合いを持つ前にこのメルクの修道院に、バイエルン選帝候カール・アルブレヒト一家がやって来るのです。



ここで数日滞在した後、マリア・テレジアの父カール6世に直談判をしにプーカスドルフに向かいますが、話が丸く治まるわけもなく、
翌年1740年カール6世が亡くなり、ここぞとばかりにマリア・テレジアに戦いを挑みます。これがいわゆるオーストリア継承戦争の始まりです。



いろいろありましたが最終的に、王冠は無事マリア・テレジアとフランツ・シュテファン(アントワネットの父)が奪還します。
その際メルクの修道院に本陣が置かれていました。

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蔵書10万冊 確かめるのも億劫になる冊数です。

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翌朝、兄ヨーゼフ2世に見送られアントワネットはメルクを後にします。

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雨が降っていたそうです。 肉親と別れ、アントワネットはどう思ったのでしょう。

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坂のふもとのこの薬局は、アントワネットがやって来た頃からあったそうです。



私と夫は、メルクの修道院を後にし、ワッハウ渓谷クレムス行き、ドナウ川下りの船乗り場へ。
ワッハウ渓谷の文化的景観(この景観の中にメルクの修道院も含まれる)は、世界遺産となっています。



修道院を訪れた時点では、私はアントワネットのことばかりで頭がいっぱいで世界遺産だとは知りませんでした。
ガイドブックもロクに見ていませんでした。



世界遺産であろうがなかろうがそんなことはどうでもいいのです。
日本人は世界遺産という言葉にやたら反応する人が多いようですが、そうでない大自然や遺跡や景観や建物には敬意を払わないのでしょうか。
疑問を投げかけたくなる人に時々出くわします。



修道院から船乗り場まで結構歩きました。



14歳のアントワネットはどう思ってここを後にしたのだろう、などと考えながら
ワッファウ渓谷の美しい景観を、少し寂しい気持ちで眺めていると、
黄色い「メルクの修道院」が視界に入って来ました。



彼女が出発した時と似たようなお天気で、曇っていて小雨が降ったり・・・。
ドナウ川の曲がり方によって、修道院は姿を見せたり消したりしながら段々小さくなっていきます。



高台にある修道院は、アントワネットの目にも飛び込んできたことでしょう。
240年前アントワネットを見送り、そして現代、彼女と反対方向に向かう私を見送ってくれました。





参考文献:ケーラー・鹿子木恵美子著「ロココの花嫁マリー・アントワネット ベルサイユへの旅路」叢文社
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# by pinkfleur | 2012-05-30 00:00 | オーストリア
2011年 11月 24日

EU

ヨーロッパ・・・もう終わり・・・・・・?
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# by pinkfleur | 2011-11-24 22:49
2011年 11月 19日

栗づくし・・・

今日いただいた栗まんじゅうに栗餅


和菓子って繊細。 栗の甘さと餡の甘さが重ならない。 
この繊細さ、代表して悪いがフランス人にはわかるまい。 
いや、日本人にしかわからない。


いずれにせよ 作れまい。
でも、日本人パティシエは優秀だと思う。

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お い し い ~ ♥ 
日本人に生まれてよかった ♥ 


やっぱり和菓子が一番 ♥
和菓子最高 ♥ 和菓子万歳 ♥

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# by pinkfleur | 2011-11-19 21:57
2011年 11月 08日

La Précieuse のモンブラン

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栗の季節だけ、期間限定 ラ・プレシューズのモンブラン  先日のおやつ

栗の香りが、、、香りも美味しいのです。  ^ ^




La Précieuse
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# by pinkfleur | 2011-11-08 21:10 | フランス語
2011年 10月 27日

アントワネットの浴室 - La salle de bain de Marie-Antoinette -

アントワネットの浴室
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湯を浴びたアントワネットはこのベッドで休んでいたようです。





こちらは一般公開はされていません。
プライベートアパルトマンツアーで見学可能です。
場所はヴェルサイユ宮殿、王妃の内殿1階です。



いろいろな人が証言を残しているように、
マリー・アントワネットは清潔好きでした。



不潔極まりなかったヴェルサイユとは
好対照の実家・オーストリアの宮廷は清潔そのもので、
そこで育ったアントワネットが清潔好き、になるのも自然なことです。



彼女の母マリア・テレジアは、子供達に
「自身の体は自身できれいにすること」 と教育しています。



当時、お風呂に入る習慣などなかった時代ですが
特にフランス人はお風呂に入らなかったようです。
ゆえにあれだけ香水が発達したのかしら・・・?
(災い転じて福となす・・・?)



中世以降、動物性のきつい香りが病気除けになるとかで
貴族たちは香水玉に入れて持ち歩いていたんだとか。
なんだかかえって具合が悪くなりそうですが。



アントワネットが来るまで、フランスではムスクなど
動物性香料が当り前とされてきましたが
花の自然な香りを好む彼女が植物性香料を作らせました。



ちなみにルイ16世も清潔好きで
狩りの後は必ずお風呂に入っていたそうです。





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朝、沐浴後のアントワネットとルイ16世が結ばれて
第1子マリー・テレーズを妊娠した、と何かで読んだのだけど。
・・・このベッドだったのかしら・・・



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彼女が眺めたであろう、傘の中。 
こういうのがとっても気になるんです、私。
彼女が見たものを同じ様に見てみたい。



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薄いネグリジェのようなものを着て入浴していました。
ショコラを飲みながら、など。



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肝心のバスタブは残っていなくて、これはバスタブがあった跡。



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そしてこちらは toilettes (トイレ) です。



大理石で寒々しい感じがするバスルームですが
日当たりはとてもよかった。





なんでも欧米人は肉食ゆえ、熱性体質だとか。
だから熱いお風呂などもってのほか、なんだそう。
寒い日でも半袖半パン、裸足みたいな人いますものね。



そして狩りがいつでも成功するわけではなく
次はいつ食べれるかわからないから
体が少しずつ肉を消化して、力を温存しようとした
DNAが残っていると聞いたことがあります。



確かにサッカーでも、スタミナが切れにくい。
最後の最後に粘り強さのようなものを見せてくる。



ジビエなんて私はダメなんですが
今は季節なんですよね・・・。



さあ今夜も温かい湯船につかって寝ます。
おやすみなさい。
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# by pinkfleur | 2011-10-27 22:36 | 王妃のプライベートアパルトマン
2011年 10月 23日

プチ・トリアノン

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ここはプチ・トリアノンの王妃のお部屋です。
プチ・トリアノンはいわゆる王妃の邸宅、家です。




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可愛らしい矢車菊とバラの模様のファブリックに
アントワネットのセンスのよさが伺えます。




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人が入らないように写真を撮るのに骨が折れました・・・(ホントにじゃないですよ)
だってもんのすご~~~い人なんですもの・・・!




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しきたりずくめで常に誰かがいる宮殿の豪華なベッドより
ここでひとりで目覚める朝は気持ちよかったでしょうね。




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テーブルの上にパールのイヤリングが置かれていて
まるで王妃が忘れている、かのような
なんとも心憎い演出だな、と思いました。
(あとで係の人が取りに来てました)
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# by pinkfleur | 2011-10-23 22:15 | マリーアントワネットの離宮
2011年 10月 21日

Yahoo France

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フランス語の文章に慣れるため、ネットに接続すると
Yahoo France が立ちあがるようにしています。


三面記事っぽくて、なんとなく楽しくて、辞書を片手に
ついつい時間を忘れて画面に釘付けになることもしばしば。



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今日はこんな記事を発見! 


カーラ・ブルーニ・サルコジ大統領夫人、女の子を出産してたんですね。


カーラ・ブルーニ自身のホームページで
出産のお祝いメッセージのお礼と、赤ちゃんの名前を公表しているようです。


いや~女の子だったんですね!
もうそろそろなのかな~と、ちょっと楽しみにしてました。


赤ちゃんの名前は " Giulia " ジゥリアちゃん。 
生まれたのは10月19日夜、ミュエットにあるクリニックにて。
(私が見たいろいろな記事では、夜10時だとか8時だとか様々)
母子ともに健康とのこと。


この日サルコジ大統領は出産直前の彼女の病院に。
しかしドイツ・メルケル首相との会談のため出産には立ち会えなかったそうな。
翌朝、大統領がカーラさんと赤ちゃんに会いに
病院に訪れた写真がYahoo Franceに載ってました。


赤ちゃんは報道の前に出さない、と宣言していたので
てっきり赤ちゃんの性別や名前もシークレットなのかと思っていたのだけど
そこは公表したのね・・・。


彼女のホームページの喜びに満ちた文章を読んでいて
parvenir という文字を発見。
これは(フランス語で)到達する、という意味で
彼女は「祝福のメッセージは私に届いています」
とメッセージを書いています。


先のマリー・アントワネットの遺書にも
parvenir があり、こちらは悲しい使われ方を・・・
「この手紙があなたに届くかどうか」と。


同じ parvenir だけど、いずれもフランスのファーストレディ
かたやお祝いメッセージが届いて
かたや悲痛の叫びは届かず・・・


と、こんなことを思ったのでした。


とにかくおめでとうございます、カーラさん!
生まれたてのふにゃふにゃのベベ(赤ちゃん)かわいいから見たいな~。


赤ちゃんって、日に日に顔が変わるし
今のうちなら、一度くらいマスコミに登場してもいいのでは~?



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# by pinkfleur | 2011-10-21 23:55
2011年 10月 16日

マリー・アントワネットの遺書 Le testament de Marie-Antoinette

10月16日 今日はマリー・アントワネットの命日です。



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                                  マリー・アントワネットの遺書(処刑前、義妹マダム・エリザベトに宛てた手紙)




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先日から今日のために、彼女の遺書を(フランス語の原文のまま)読んできました。
辞書に助けられました。


フランス語で理解したい、という夢が完璧ではありませんが叶いました。


今日は彼女の遺書を載せたいと思います。


そして拙い私の訳ではありますが、そちらも載せてみました。
読んでいただければ嬉しいです。


何か検索されていて、私のブログに飛んできてくださった方は
きっとマリー・アントワネットに興味がある方だと思っています。






- マリー・アントワネットの遺書について -

1793年10月16日12時15分 現在のコンコルド広場にて
処刑されたマリー・アントワネットが夫であるルイ16世の妹
マダム・エリザベトに宛てて書いた手紙のことを指します。


1792年8月タンプル塔に幽閉された国王一家
<ルイ16世、アントワネット、エリザベト、マリー・テレーズ(娘)、ルイ・シャルル(息子)>は
翌1793年1月ルイ16世が処刑され、7月ルイ・シャルルが家族から引き離され
8月にはアントワネットがコンシェルジュリ監獄に移送されました。


そして10月14日から2日間にわたる裁判の末
10月16日午前4時過ぎ、死刑判決が出た直後彼女は
1789年革命勃発以降、国王夫妻のもとに残り苦労を共にした
義妹マダム・エリザベトに最後の手紙を書きます。


この時、アントワネットは38歳になる直前、エリザベトは29歳でした。


手紙は縦23.5cm 横19cmの紙に書かれ
最後は力が尽きたのか、見張りの衛兵に止められたのか
結びの言葉がありません。


しかし読んでほしかった義妹エリザベトには届かず
エリザベトも翌1794年5月に処刑されます。
しかも息子のルイ・シャルルもタンプル塔内で亡くなります。
生き延びたのは娘のマリー・テレーズ唯一人。


手紙はロベスピエールの手に渡ってしまいます。
ロベスピエール失脚・処刑後もなおも手紙は保管され続け
王政復古後の1816年にルイ16世の弟、ルイ18世の元に届きます。
ようやく手紙は陽の目をみます。
実に23年後のことです。


その後ルイ18世の命により毎年アントワネットの命日には
フランス全土の教会において彼女の遺書が朗読されました。



※ なお、原文中、フランス語の古語はそのままにしてあります。
例えば「ここ」という意味の ici が18世紀では icy なのでそのままにしています。
また彼女のスペルミスや現代文法との違い(?)の様なものも見受けられましたが
スペルミスは誰にでもあり、まして彼女の精神状態を考えると無理もなく
原文を尊重し、私の目で確認できたものは原文のままに致しました。


※ 下記の冒頭日付の 8bre は octbre(10月)のこと。
ラテン語で oct は 8 の意味。







Ce 16 8bre, 4heures ½ du matin


C'est à vous, ma sœur, que j'écris pour la dernière fois,
je viens d'être condamnée non pas à une mort honteuse,
elle ne l'est que pour les criminels,
mais à aller rejoindre votre frère.


Comme lui innocente, j'espère montrer la même fermeté
que lui dans ces derniers moments.


Je suis calme comme on l'est quant la conscience ne reproche rien,
j'ai un profond regret d'abandonner mes pauvres enfants ;
vous savez que je n'existais que pour eux,
et vous, ma bonne et tendre sœur,
vous qui avez par votre amitié tout sacrifié pour être avec nous,
dans quelle position je vous laisse.


J'ai appris par le plaidoyer même du procès
que ma fille était séparée de vous.
Hélas la pauvre enfant, je n'ose pas lui écrire,
elle ne recevrait pas ma lettre,
je ne sais même pas si celle-cy vous parviendra,


recevez pour eux deux icy ma bénédiction.
J'espère qu'un jour lorsqu'ils seront grands,
ils pourront se réunir avec vous et jouir en entier de vos tendres soins.


Qu'ils pensent tous deux à ce que je n'ai cessé de leur inspirer,
que les principes et l'exécution exacte de leurs devoirs sont la première base
de la vie, que leur amitié et leur confiance mutuelle en feront le bonheur ;


que ma fille sente à l'âge qu'elle a, elle doit toujours aider son frère
par les conseils que son l'expérience qu'elle aura de plus que lui
et son amitié pourront lui inspirer ;


que mon fils, à son tour, rende à sa sœur tout les soins,
les services, que l'amitié peut inspirer ;
qu'ils entent enfin tout deux que, dans quelque position où ils pourront se trouver,
ils ne seront vraiment heureux que par leur union, qu'ils prennent exemple de nous.
combien dans nos malheurs, notre amitié nous a donné de consolations,
et dans le bonheur on jouit doublement quant on peut le partager avec un ami.
et où en trouver de plus tendre, de plus cher que dans sa propre famille.


que mon fils n'oublie jamais les dernier mots de son père que je lui répète
expressément, qu'il ne cherche jamais à venger notre mort.


J'ai à vous parler d'une chose bien pénible à mon cœur.
Je sais combien cet enfant doit vous avoir fait de la peine.
pardonnez-lui, ma chère sœur, pensez à l'âge qu'il a,
et combien il est facile de faire dire à un enfant ce qu'on veut,
et même ce qu'il ne comprend pas,
un jour viendra, j'espère, où il ne sentira que mieux tout le prix
de vos bontés et de votre tendresse pour tous deux.


Il me reste à vous confier encore, mes dernières pensées.
J'aurais voulu les écrire dès le commencement du procès ;
mais outre qu'on ne me laissait pas écrire, la marche en a été si rapide,
que je n'en aurais réellement pas eu le temps.


Je meurs dans la religion catholique, apostolique et romaine,
dans celle de mes pères, dans celle où j'ai été élevée,
et que j'ai toujours professée, n'ayant aucune consolation spirituelle à attendre,
ne sachant pas s'il existe encore icy des prêtres de cette religion,
et même le lieu où je suis les exposerait trop s'ils y entraient une fois.


Je demande sincèrement pardon à Dieu de toutes les fautes
que j'ai pu commettre depuis que j'existe.
J'espère que, dans sa bonté, il voudra bien recevoir mes derniers vœux,
ainsi que ceux que je fais depuis longtemps pour qu'il veuille bien
recevoir mon âme dans sa miséricorde et sa bonté.


Je demande pardon à tout ceux que je connais et à vous, ma sœur,
en particulier, de toutes les peines que, sans le vouloir, j'aurais pu vous causer.
Je pardonne à tous mes ennemis le mal qu'ils m'ont fait.
Je dis icy adieu à mes tantes et à tous mes frères et sœurs.


J'avais des amis, l'idée d'en être séparée pour jamais,
et leurs peines, sont un des plus grand regret que j'emporte en mourant,
qu'ils sachent au moins que jusqu'a mon dernier moment,
j'ai pensé à eux.


Adieu, ma bonne et tendre sœur ; puisse cette lettre vous arriver.
Pense toujours à moi je vous embrasse de tout mon cœur,
ainsi que ces pauvres et chers enfants,
mon Dieu qu'il est déchirant de les quitter pour toujours.


Adieu adieu Je ne vais plus m'occuper que de mes devoirs spirituels.
Comme je ne suis pas libre dans mes actions, on m'amènera peut-être,
un prêtre mais je proteste icy, que je ne lui dirai pas un mot,
et que je le traiterai, comme un être absolument étranger.







10月16日午前4時半


妹よ、あなたに最後の手紙をしたためています。
たった今、私は死刑判決を受けてきたところです。
死刑は犯罪人にとってのみ恥ずべきもので
私にとっては、あなたの兄上に会いに行くようにという判決なのです。


あの方と同じく無実の私は、最後の時にやはりあの方と同じように
毅然とした態度を示したいと思っています。
良心に咎めるものが何もない人がそうであるように、私も平静です。


哀れな私の子供たちを残していくことが心残りでなりません。
ご存知のとおり私は子供たちと、そして善良で優しい妹よ、
あなたのために生きてまいりました。


友情からすべてを犠牲にして私たちと一緒に留まってくれたあなたを
なんという境遇に置いていかなければならないのでしょう。


裁判の中で、娘があなたから引き離されたと聞きました。
ああ、なんてかわいそうな子なのでしょう。
私はあの子に手紙を書く気力はありません。
あの子は受け取らないでしょうから。
それにこの手紙でさえ、あなたに届くかどうかわかりません。


どうか二人の子供に代わって私からの祝福をお受けください。
いつか、あの子たちが大きくなって、あなたと一緒になり
あなたの優しいお世話を受けられるようにと願います。


二人は私がいつも言い聞かせてきたことを考えてくれますように。
それは義務を果たすことが人生において最も大切なことだということを。
互いに友情と信頼を寄せあえば幸せになれるということを。


娘は姉として、弟に優る経験と彼への愛情から、弟をいつも助けてあげますように。
息子も姉の優しい世話に対し愛情を持って応えてくれますように。


どんな境遇にいようとも、二人が仲良く力を合わせれば
本当に幸せになれるということをわかってくれますように。


私たちの例に倣ってほしい、不幸の最中にあって
互いの友情によってどれだけの慰めを得ることができたかを。
幸せなときは、それを友人と分かつことで喜びが2倍になるのです。
自分の家族以上に優しく大切に思える友人がどこにいるというのでしょう。


息子は私が何度も繰り返した父の最後の言葉を決して忘れないように。
私たちの死に対する復讐など決して考えないように。


あなたに話すのにとても胸が痛みますが
あの子がどれほどあなたを苦しめたのかわかっています。
彼を許してください。
妹よ、彼の年齢をわかってください。
子供が、自分が理解できないことでさえ
大人は望むことをいとも容易く言わせることができるのです。


いつの日か、息子があなたの愛情とその価値を理解する日が
来るものと思っています。


あなたにお伝えしておきたい最後の私の想いがまだ残っています。
裁判が始まったときから手紙を書きたかったのですが
それは許されませんでした。
それに裁判があまりにも早く進み、実際書く時間もありませんでした。


私は先祖伝来の、その中で育てられ信じてまいりました
神聖なるローマ・カトリック信仰のもと、死へ赴きます。


司祭による慰めが期待できないまま
また司祭がいらっしゃるのかどうかわかりませんが
いずれにせよ私のところに来ていただくのは
あまりに危険な目に晒してしまいます。


私は生まれてから今までに犯した全ての罪に対し
心から神に許しを乞います。


私の最後の願いが神のご慈悲によりお聞きいただけますように。
これまで長い間祈りを捧げてきたのと同じく
私の魂が神のご慈悲により許されますように。


私がみなさまに、とりわけあなたに、知らず知らずのうちに
与えた苦しみをどうかお許しください。


私に敵対する者が加えた危害を私は許します。


この場で叔母様方、兄弟姉妹のみなさまに最後のお別れを申し上げます。


私にも友達がありました。
永遠に会えないことを思うと、そして彼らの苦痛を考えると
死に臨んで最も心残りなことです。


最後の瞬間まで彼らのことを思っていたことを
せめてわかってもらえますように。


さようなら、善良で優しい妹よ。
どうかこの手紙があなたに届きますように。
いつも私のことを想っていてください。


あなたと、愛しい哀れな子供たちを心から抱きしめます。


神よ、彼らとの永久の別れは胸が引き裂かれる思いです。


さようなら、さようなら
後はもう、神に一切をお任せするだけです。


私には自分の望む自由はありませんから
おそらく宣誓司祭が連れてこられるでしょう。
でもここではっきり申し上げます。
その方とは一言も口をきかず、
全く知らない他人と接するようにふるまうつもりです。







※ マリー・アントワネットは娘がエリザベトと引き離されたと思ったため
手紙を書いても娘が(怒っていると思ったのか)受け取らないと思ったようです。


※ エリザベトに息子のことで謝っているのは
息子との近親相姦の嫌疑がアントワネットとエリザベトにかけられ
証人として息子ルイ・シャルルが強要された末、嘘の自白をしたことについてです。
(近親~はもちろん全くのでたらめ、でっちあげです)

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# by pinkfleur | 2011-10-16 12:00 | アントワネット関連・人・事
2011年 10月 09日

Le XVIIIe au goût du jour

ヴェルサイユ宮殿の大トリアノンにて18世紀衣裳展が開催されています。
(今日10月9日まで...!)

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展示模様はこんな感じ。 (写真はヴェルサイユ宮殿HPより拝借)
幻想的...。 真ん中の白いドレスはカール・ラガーフェルドの作品だと思う。


近かったら、「お?今日までじゃない!」ってさくっと行っちゃうんですが...。


不定期に送られてくるヴェルサイユ宮殿からの「催しもの」情報メール。
ずっと以前に登録しておいたのに「案内」が届くようになったのは数ヶ月前から...。(謎)
それにしてもデパートの催事お知らせのような気軽さです。笑
(すごい時代になったものです...)


この案内は早くに届いていたのですが、ちゃんと見ていなかったので改めて見ると
ヴェルサイユ宮殿・大トリアノン(グラントリアノン)において
現代のデザイナーが18世紀をテーマにデザインした衣装と
現存する18世紀の衣裳・靴・アクセサリーなどの展覧会が開かれているようです。


出展メゾン、デザイナーは
シャネル、ジバンシー、ディオール、ゴルティエ、ヴィヴィアンウェストウッド、ヨージヤマモト etc...


宮殿ホームページで堪能しましたが
私はシャネルのデザイナー、カール・ラガーフェルド氏の作品が好きです。
元々カール氏のブランド「PAULE KA」が大好き。 ^ ^


以下展示されている18世紀の衣裳や小物です。 (写真ヴェルサイユ宮殿HPより拝借)

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1730年頃  金箔で縁取られた扇子(折り畳み式)



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1730年頃  銀糸刺繍の施された革靴  半端ではない職人仕事です...。凄すぎます。



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1750-60年頃  タフタ織 絹糸によるチェーンステッチが施されたジャケット
(きれいだなぁ...)



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1750-60年頃  金銀刺繍が施されたドレス



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1755-60年頃  ランパス織という大変豪華な織物ドレス



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1770年頃  象牙色のシルクで織られたサテン地のポシェット 銀のスパンコール
ちょうどアントワネットがフランスに嫁いできた年です。(アントワネット15歳頃)



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1780-85年頃  ずばりアントワネットの時代のデザインです。タフタ織 絹糸キルト地 
ジャケットとスカート(この時代すでにツーピース的な衣裳があったのですね)
(年代王妃25~30歳頃)



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1780年頃  ピンク色の皮 黄色い糸で刺繍 トップに白いリボンのパンプス
かわいらしいですね。デザイン凝っています。現代にも通用します。
アントワネットもこういった感じのを履いていたことでしょう。(年代王妃25歳頃)



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1785年頃  畝織のストライプ模様のドレス
こちらもアントワネットの時代です。(年代王妃30歳頃)



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それにしても行きたかった...。





衣裳展のCM(ヴェルサイユ宮殿公式HP)

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# by pinkfleur | 2011-10-09 20:51 | ヴェルサイユ宮殿
2011年 09月 27日

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秋が来ましたね。
先日友人に頼まれ、カメラマンとしてお祭りに参加。笑


お神輿を担ぐ人たちを、「あ、今この瞬間!」「こっちに回ってこう撮ろう」なんて考えながら動き回ってパシャパシャ。
ますますカメラって楽しいな、って思えました。


人の動き、心の動きまでもカメラって写し出す。 ちょっと怖い。笑


高くなった空を見上げこうして秋の到来を喜んでいながらも、この同じ空の下では
肉親や大事な人や家を失い、つらい日々を送っている人たちがいるんですよね。


東京では電車の人身事故が多くそのため通勤に支障をきたします。
人が多いためそれだけで電車がよく遅れます。
基本的に電車遅延は遅刻の理由になりません。


人身事故がある度に
いい加減迷惑・・・と思ってしまうのも事実。
そして人身事故で遅刻したくないから早く家を出ます。
こんな理由で家を早く出るなんて・・・首都圏で働く人々はおそらくマヒしています。


これ以上マヒしないように、と思った1日でした。
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# by pinkfleur | 2011-09-27 20:35